大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天の川水さへに照る舟泊てて・・・巻第10-1996~1999

訓読 >>>

1996
天(あま)の川(がは)水さへに照る舟(ふね)泊(は)てて舟なる人は妹(いも)と見えきや

1997
ひさかたの天の川原(かはら)にぬえ鳥(どり)のうら泣きましつすべなきまでに

1998
我(あ)が恋を夫(つま)は知れるを行く舟の過ぎて来(く)べしや言(こと)も告(つ)げなむ

1999
赤らひく色(いろ)ぐはし子をしば見れば人妻(ひとづま)ゆゑに我(あ)れ恋ひぬべし

 

要旨 >>>

〈1996〉天の川の水に照り映えるほど美しい舟を岸辺に着けて、その舟のお方は愛しい人に逢えたのだろうか。

〈1997〉天の川の川原で、その人は、ぬえ鳥のように忍び泣きしておられた。たまらなくいたわしく。

〈1998〉私のつらい思いをご存じのはずなのに、あの方の舟はここに立ち寄らずに行ってしまうのか、せめて言伝てだけでもほしい。

〈1999〉ほんのりと頬が朱に染まったその人をたびたび見れば、人妻なのに私は恋してしまいそうだ。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から、「七夕(しちせき)」の歌。ここから2033まで「七夕の歌」が38首続きます。これらは、宮廷詩宴に集った下級官人らの歌だろうといわれます。七夕伝説の陰暦7月は秋であり、7~9月は秋の季節、また恋の季節とされました。七夕伝説はもともと中国のもので、その内容は次のようなものです。―― 昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した。――

 『 万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良大伴家持の4つの歌群に集中しています。妻問い婚という形態と重ねられるゆえに流行しましたが、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。

 1996の「舟なる人」は、牽牛のこと。1997の「ひさかたの」「ぬえ鳥の」は、それぞれ「天」「うら泣き」の枕詞。「すべなし」は、どうしようもない。1998の「知れるを」の「を」は、逆接。「告げなむ」の「なむ」は、願望。1999の「赤らひく」は、赤みを帯びる意で「色ぐはし子」にかかる枕詞。「色ぐはし」の「色」は顔立ち、容貌。「くはし」は、美しい、うるわしい。「しば」は、たびたび。

 なお、1996から2012の歌までは七夕当日以前の時を詠んだ歌が多く存在しており、「待つ」という動詞が多用されていることから、七夕の日や相手を待つ思いが歌われており、さらに「告ぐ」という、使者によって消息や思いを相手に伝える言葉も使われています。つまり、ここには牽牛と織女の他にもう一人、使者が登場しています。そして、その使者とは、同じ空にある「月」を擬人化した「月人壮士」です。これについては、月人壮士を登場させることによって、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたのだろうとの見解があります。たとえば、1996は牽牛の月人壮士への問いかけとみると、「舟なる人」は牽牛のことではなく、「天の川の水に照り映えるほどの月の舟がとまっている。舟にいる月人壮士よ、お前には我が妻である織女の姿が見えたのだろうか」のように解釈できますし、それに続く1997は、月人壮士が七夕以前の織女の姿を答えた歌と見ることができます。 また、1999は、第三者として織女を見てその美しさに惹かれた心を詠んだ歌ですが、その第三者とは月人壮士であるかもしれません。

 

 

 

七夕について

 もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、すでに天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。

 このころには神仙道も渡来し、これと相俟って行われましたが、七夕の方が一段と喜ばれたらしく、『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あります。ただし、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良大伴家持の4つの歌群に集中しており、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。

 なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した――。ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。女が男に逢いに行くというのは、日本人の共感を呼ぶには無理なストーリーだったのでしょう。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引