大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

妹に恋ひ我が越え行けば・・・巻第7-1208~1210

訓読 >>>

1208
妹(いも)に恋ひ我(あ)が越え行けば背(せ)の山の妹に恋ひずてあるが羨(とも)しさ

1209
人ならば母の最愛子(まなご)ぞ麻(あさ)もよし紀(き)の川の辺(へ)の妹(いも)と背(せ)の山

1210
我妹子(わぎもこ)に我(わ)が恋ひ行けば羨(とも)しくも並び居(を)るかも妹(いも)と背(せ)の山

 

要旨 >>>

〈1208〉妻を恋しく思いつつ山を越えて行くが、背の山は、妹の山と並んで、恋い焦がれることもなく立っているのが羨ましい。

〈1209〉もし人であったなら、母の最愛の子である。紀の川のほとりに立っている妹と兄の山は。

〈1210〉妻のことを恋しい思いで旅路を行くと、羨ましくも一緒に並んでいる、妹の山と背の山は。

 

鑑賞 >>>

 「覊旅(旅情を詠む)」歌。ここの歌にある「背の山」と「妹(の山)」は、大和国から紀伊国へ向かう要路、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山で、紀の川を挟んで北岸に「背の山」、南岸に「妹の山」が並んでいます。川を堰き止めるような地形になっており、南海道を往来する人々の目標となる山でした。当時の行程では、飛鳥からここまで2日、奈良からは3日かかりましたから、ここを通る京の旅人の多くは、二つの山の名に、旅愁、妻恋しさを感じたようです。この地を詠んだ歌は『 万葉集』中14首あります。

 1208の「妹」は、京にいる妻。「越え行けば」は、紀伊から京への帰路と見えます。「恋ひずて」は、恋いずして。背の山は妹の山をすぐそばに見ているから恋い焦がれることもなくて、の意。「羨しさ」は、形容詞に「さ」が付いて名詞化したもの。

 1209の「人ならば」は、妹と背の山に対する仮想。「母が最愛子」は、母の最愛の子。両親ではなく「母が」となっているのは、夫妻同居せず、子は母といるだけだったことが背景にあるとされます。「麻もよし」は、麻を紀伊の特産とするところから「紀」の枕詞。作者は妹の山と背の山を見て、夫婦ではなく、若い兄妹を連想しています。窪田空穂は、「親の子に対する歌は比較的少ないので、その意味で特色のあるものである。美しく明るく、奈良京の人の歌とみえる。愛する子どもをもっており、心に懸かっているところからの連想であろう」と言っています。あるいは、母に許されて可愛がられている若い夫婦にみなした表現とも。

 1210の「我が恋ひ行けば」は、恋しく思ってそちらへ向かって行けば。「羨しくも」は、うらやましいことに。「も」は、感動的に強調する助詞。1208と全く同想の歌です。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

【為ご参考】三大歌集の比較