大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

率ひて漕ぎ去にし舟は高島の・・・巻第9-1718

訓読 >>>

率(あども)ひて漕(こ)ぎ去(い)にし舟は高島の安曇(あど)の港に泊(は)てにけむかも

 

要旨 >>>

声を掛け合いながら漕いでいった舟は、今頃、高島の安曇の港にでも停泊したのだろうか。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「高市が歌」とあり、確証はないものの、歌風や詠まれた土地が湖西の高島付近であることから高市黒人の作と認められています。巻第9のこのあたりの題詞は非常に不親切で、この歌の前にある1715・1716も、それぞれ「槐本の歌一首」「山上の歌一首」とあるのみです。このような簡便な記名がなされているのは、内輪の仲間や旧知の人の作を集めた私的な資料の類だったからかもしれないとの見方があります。

 「率ひて」は、声を掛け合って、または率いて。舟を漕ぎ進めるために声を揃えて調子を合わせて漕ぐのであり、第4句の「安曇の港」のアドの地を思って(めざして)、の意を掛けているとの見方があります。「高島」は、琵琶湖西北岸の滋賀県高島市。「安曇の港」は、安曇川の河口。「かも」は、詠嘆。湖岸から眺めての歌と見えます。

 文学者の犬養孝は、この歌を評し、「『率ひて・漕ぎ行く・船は』と一つの方向に焦点化してゆく表現は、作者の、船によせる心ひかれの心情でもあり、湖上のあとに残る寂寥感をもあらわしてゆく。そこへ三・四句の地名によって縹渺(ひょうびょう)たる大景の中のはるかな一点が明示されて結句の詠嘆となるから、作者の、船のあとを追う心情も、空虚な夕景の湖面にのこる旅のやるせなさ不安なわびしさもいちだんと強まってくる」と述べています。

 

 

高市黒人の歌(索引)

 

万葉歌碑

 万葉歌碑は『万葉集』の歌を刻む碑(いしぶみ)であり、多くの人々に親しまれる万葉の歌を石に刻んでいます。これには、その歌を作った歌人を讃える意味が込められており、その歌が後世にも残ることを願ったものです。歌碑の数は、国内に約2000基あり、大勢の人々が訪れています。歴史的な場所、たとえば奈良の「山の辺の道」はじめ桜井市の古道には、柿本人麻呂額田王など、名歌人たちの歌碑が60数基残されています。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引