訓読 >>>
4025
志雄路(しをぢ)から直(ただ)越え来れば羽咋(はくひ)の海朝なぎしたり船楫(ふなかぢ)もがも
4026
鳥総(とぶさ)立て船木(ふなぎ)伐(き)るといふ能登(のと)の島山(しまやま)今日(けふ)見れば木立(こだち)繁(しげ)しも幾代(いくよ)神(かむ)びぞ
4027
香島(かしま)より熊来(くまき)をさして漕ぐ船の楫(かぢ)取る間(ま)なく都し思ほゆ
4028
妹(いも)に逢はず久しくなりぬ饒石川(にぎしがは)清き瀬ごとに水占(みなうら)延(は)へてな
4029
珠洲(すす)の海に朝開(あさびら)きして漕(こ)ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
要旨 >>>
〈4025〉志雄の山道をまっすぐ越えてくると、羽咋の海は朝なぎしている。こんな時に、舟と梶でもあればよいのに。
〈4026〉鳥総を立てて神に祈って船木を伐り出すという能登の島山。今日この目で見ると、木々が茂りに茂っている。いったい幾代を経ての神々しさなのだろう。
〈4027〉香島から熊来に向かって漕ぎ進んでいく櫂のように、休む間もなく都のことが思われる。
〈4028〉妻に逢わずにずいぶん経った。饒石川の清らかな瀬ごとに水占いをして妻の無事を確かめよう。
〈4029〉珠洲の海に朝早く船出をして漕いで来ると、長浜の浦に月が照り輝いていた。
鑑賞 >>>
天平20年(748年)、大伴家持が、越中国守として春の出挙の務めのため諸郡を視察した折に、その時その所に応じて目についたものを歌った歌群9首のうちの5首。公務の旅だったので、気分は緊張しつつも、同時に心躍る楽しい旅であったとみえ、行く先々での歌に、そうした気分が窺えます。また、いずれの歌にも越中の地名が出ており、都人である家持にとって、地方の景色、とりわけ日本海側の景色は珍しいものであり、一つ一つの地名にも心惹かれたのでしょう。
4025は、気太(けだ)の神宮に赴き参り、海辺を行く時に作った歌。気太の神宮は羽咋市の海岸近くの社(気多神宮)。「志雄路」は、富山県氷見市から石川県羽咋市の南の志雄へ越える道。「羽咋の海」は、気多神宮の西方に広がる美しい海。山肌を左右に見る急坂の峠越えから一転して目の前に開けた海の景色に感動しています。「船楫もがも」は、舟と櫂があればいいのに。
4026は、能登の郡(のとのこおり)にして香島の津より舟を発し、熊来の村をさして往く時に作った歌。旋頭歌(5・7・7・5・7・7)の形式になっています。能登の郡は石川県七尾市と鹿島郡の地。香島の津は七尾市の港。熊来村は七尾市中島町あたり。4027の「香島より~船の楫取る」は「間なく」を導く序詞。
4028の「饒石川」は、輪島市門前町を流れる仁岸川。「水占延へてな」は、水占をしたい。「水占」は、水を利用した占いで、川に縄などを張り、それにかかる物によって占ったといわれるものの、よく分かっていません。都にいる妻といつ逢えるかを占ったのかもしれません。
4029は、珠洲郡(すずのこおり)より船発ちして治布(ちふ)に廻った時、長浜の浜に泊まって月光を仰いで作った歌。珠洲の郡は能登半島の先端の郡。「治布」は、所在未詳。「朝開き」は、早朝の港の門(入り口)を押し開くように出航すること。斎藤茂吉はこの歌について、「何の苦も無く作っているようだが、うちに籠るものがあり、調べものびのびとこだわりのないところ、家持の至りついた一つの境界であるだろう。特に結句の『月照りにけり』は、ただ一つ万葉にあって、それが家持の句だということもまた注目に値する」と評しています。のびやかな歌いぶりは、任務を果たしての開放感のゆえかと見えます。
家持の行政活動のなかで、出挙のための管内の巡行や、東大寺墾田地(荘園)の占定と開墾状況の検察は、国守として果たすべき重要な任務でした。また、家持の作歌の才能が開花したのは、越中国で過ごした5年間(746~751年)においてとされます。この間に作った歌は約220首に及び、全作歌数の約470首のうち半分近くを占めています。
出挙
出挙(すいこ)とは、古代から中世の日本で行われていた利子付き貸借のことで、稲や財物を貸しつけました。春の耕作前に貸し出し、秋の収穫後に利息と共に収納していました。元来は勧農と貧民救済のためのものでしたが、奈良時代以降は一種の税として諸国の有力な財源となりました。官が貸し付けるものを公出挙(くすいこ)といい、私人が行なうものを私出挙といい、利率は、公出挙で5割、ときに3割、私出挙で10割と、非常に高率でした。