訓読 >>>
4248
あらたまの年の緒(を)長く相(あひ)見てしその心引(こころび)き忘らえめやも
4249
石瀬野(いはせの)に秋萩(あきはぎ)しのぎ馬(うま)並(な)めて初鷹猟(はつとがり)だにせずや別れむ
要旨 >>>
〈4248〉長い年月の間、親しくおつきあいいただき、心を寄せて頂いたことは、忘れようにもを忘れることができません。
〈4249〉石瀬野で、秋萩を押し分けて、馬を並べ、今年初めての鷹狩りさえしていないのに、お別れしなくてはならないとは。
鑑賞 >>>
天平勝宝3年(751年)7月、越中国庁にあった大伴家持のもとに、いよいよ待ちに待った朗報が届きました。ここの歌は、17日をもって、少納言に遷任することとなった家持が、悲別の歌を作り、朝集使(ちょうしゅうし)掾(じょう)久米朝臣広縄の邸宅に贈って残した歌です。「朝集使」は1年間の政情を記した報告書(朝集帳)を太政官に提出する使者のことで、この時、広縄はその任務のため上京していて留守でした。
歌の前には、広縄に宛てた次の旨の伝言が付されています。「すでに6年の任期が満ち、転任の時がまいりました。旧友とお別れする悲しみで心中いっぱいになり、涙をぬぐう袖は乾かしようがありません。そこで悲しみの歌2首を作り、決してお忘れしないとの気持ちを残します」(6年とあるのは、足かけ年6年)。
4248の「あらたまの」は「年」の枕詞。「あらたま」は、宝石・貴石の原石を指すものと見られますが、掛かり方は未詳。「年の緒」は、年月が長いのを緒にたとえた語。「相見てし」は、お付き合いいただいた。「心引き」は、心を引くこと、ご芳情。「忘らえめやも」は、忘れられようか。「え」は自発の助動詞「ゆ」の未然形。「や」は反語。
4249の「石瀬野」は、高岡市石瀬付近または富山市東岩瀬町付近とされ、格好の狩場だったといいます。「しのぎ」は、押し伏せ。「初鷹猟」は、その年に行う初めての鷹狩りのこと。鷹狩りは晩秋から冬にかけて行われ、秋には小鷹狩といい、小鷹を使って小鳥を獲らせ、冬には大鷹狩といい、大鷹を使って大鳥を獲らせました。「だに」は、~さえも。広縄は、天平19年(747年)以来の部下であり歌友であり、何人かいた部下の中では最も親しかったようで、再び共に鷹狩のできないのを残念がっています。
なお、少納言は、太政官では太政大臣・左大臣・右大臣・大納言に次ぐ要職であり、定員は3名。従五位下に相当する官職ではあっても、政権中枢に位置するという点では、越中国守に比べれば明らかな栄転でした。
天平18年(746年)
7月 国守として越中に赴任
8月 国守の館で歓迎の宴
9月 弟・書持の訃報に接し哀傷歌を作る
12月 この頃から病に臥す
天平19年(747年)
2月 越中掾の大伴池主と歌の贈答
3月 月半ばまでに回復か
3月 妻への恋情歌を作る
4月 3~4月にかけて「越中三賦」を作る
5月 このころ税帳使として入京
5月以降、池主が越前国の掾に転任
8月 このころ越中に戻る
8月 このころ飼っていた自慢の鷹が逃げる
天平20年(748年)
2月 翌月にかけて出挙のため越中国内を巡行
3月 橘諸兄の使者として田辺福麻呂が来訪
4月? 入京する僧・清見を送別する宴
10月 このころ掾の久米広縄が朝集使として入京
天平勝宝1年(749年)
3月 越前の池主と書簡を贈答
4月 従五位上に昇叙される
5月 東大寺占墾地使の僧・平栄が来訪
5月 「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」を作る
6月 干ばつが続き、雨を祈る歌と、雨が降って喜ぶ歌を作る
7月 このころ大帳使として入京
冬に越中に戻るが、この時、妻の大嬢を越中に伴ったとみられる
11月 越前の池主と書簡を贈答
天平勝宝2年(750年)
1月 国庁で諸郡司らを饗応する宴
3月 「春苑桃李の歌」を作る
3月 出挙のため古江村に出張
3月 妻の大嬢が母の坂上郎女に贈る歌を代作
4月 布勢の湖を遊覧
6月 京の坂上郎女が越中の大嬢に歌を贈る
10月 河辺東人が来訪
12月「雪日作歌」を作る
天平勝宝3年(751年)
2月 正税帳使として入京する掾の久米広縄を送別する宴
7月 少納言に任じられる
8月 帰京のため越中を離れる。途中、越前の池主宅に寄り、京から帰還途上の広縄に会う