訓読 >>>
鴨山(かもやま)の岩根(いはね)し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
要旨 >>>
鴨山の岩を抱いて死のうとしている私を、何も知らずに妻は待ち続けているだろう。
鑑賞 >>>
柿本人麻呂の歌。題詞に「石見国(いはみのくに)に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌」とあり、多くの謎を生んだ人麻呂の最期の歌です。人麻呂がいつ死んだかについては、巻第2の歌の配列がほぼ年代順になっており、この歌とその関連群の次に奈良京時代の作が置かれていることから、その死は藤原京時代で、奈良京遷都の直前だっただろうと推定されています。また、題詞に「薨」とも「卒」ともなく「死」とあるところから、六位以下の微官だったとされているのです。
「鴨山」は彼の没所または葬所と考えられていますが、その所在は未詳で、石見国の土地とは限らず、大和・山城・三河などにも普通にある地名であるとして、臨終の地を題詞にある石見国とすることに疑義を呈する説もあります。さらにこの歌に続く224の依羅娘子の歌との関連では、「依羅」や「石川」の名の土地が河内国(大阪府)にもあることが指摘されています。死因も、衰弱して死んだのではなく、刑死だったのではという説もあります。あるいはこの歌を人麻呂の実体験そのままと考えることには、従来多くの疑問が出されており、巻第2-131以下の「石見問答歌」および巻第2-207以下の「泣血哀慟歌」と同様、宮廷サロンで供された虚構の辞世歌ではなかったかともいわれます。
「岩根し枕ける」は、一般には「岩を枕に死のうとしている」と解釈されますが、ここでは刑死させられた(水に沈められた)説に与し、「岩を抱いて死のうとしている」としています。「岩根」は岩で、「根」は添えて言った語。「し」は、強意の副助詞。「われをかも」の「か」は疑問、「も」は詠嘆。「らむ」は、現在推量。
柿本人麻呂の死
人麻呂は、出自とともに、その死をめぐる問題も大きな謎となっています。『万葉集』巻第二には、人麻呂が石見国(島根県)の鴨山(かもやま)で臨終を迎えたときに、自らを悲しんで詠んだ歌が残されています。「鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」という歌で、一般には「私は鴨山の岩を枕に死を迎えようとしているが、妻は、それを知らずに今も私を待ち続けていることだろう」のように解釈されます。しかし、これとて必ずしも定まった解釈ではないのです。
また『万葉集』では、人麻呂の死を「死」という漢字で表記しています。この時代、人の死を記す場合は、三位以上なら「薨」、五位以上なら「卒」、それ未満は単に「死」と文字を使い分けていました。さらに五位以上であれば、その事跡が正史に記載されるはずが、その記載がありません。それらの理由から、人麻呂は六位以下の下級官吏だったと考えられています。一方、人麻呂は元は高官だったが、政争に敗れて刑死したとする説もあります。そもそも巻第二には、不慮の死を遂げた人や政治的に抹殺された人達の歌が中心に掲載されていて、その最後に人麻呂の歌が載せられているのです。
そうしたことから、人麻呂がふつうに亡くなったのではなく、官位を落とされて刑死させられた(水に沈められた)説があります。ただ、この時代の死刑執行の手続きとしてそのような方法がなされたとは考えにくく、あるいは自尽したのかもしれません。いずれにせよ、不本意な死であったとみて、件の歌も「鴨山の岩を抱いて沈む私の運命を知らずに、妻は私の帰りをずっと待ち続けていることだろう」との解釈に賛同したく思う次第です。
もっとも、この歌を人麻呂の実体験そのままと考えることには、従来多くの疑問が呈されており、自らを石見の横死者に見立てて、宮廷サロンの享受に具された虚構の辞世歌だったらしいとの見方もあります。