大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

朝な朝な我が見る柳・・・巻第10-1850~1853

訓読 >>>

1850
朝(あさ)な朝(さ)な我(わ)が見る柳(やなぎ)鴬(うぐひす)の来居(きゐ)て鳴くべく森(もり)に早(はや)なれ

1851
青柳(あをやぎ)の糸の細(くは)しさ春風に乱れぬい間(ま)に見せむ子もがも

1852
ももしきの大宮人(おほみやびと)のかづらけるしだり柳は見れど飽(あ)かぬかも

1853
梅の花取り持ち見れば我(わ)が宿(やど)の柳の眉(まよ)し思ほゆるかも

 

要旨 >>>

〈1850〉毎朝、私が見ている柳よ、ウグイスが来て枝にとまって鳴けるような茂みに早くなってくれ。

〈1851〉青々として垂れ下がる柳の細枝の美しさよ。春風に乱れないうちに、一緒に見せてやれる子がいればよいのに。

〈1852〉大宮人たちが縵(かずら)にしているしだれ柳は、見ても見ても見飽きることがない。

〈1853〉梅の花を折り取って見つめていると、我が家の庭の、あの眉のような美しい柳が思い浮かんでならない。

 

鑑賞 >>>

 「柳を詠む」歌。1850の「朝な朝な」は、毎朝。「森」は、 木の茂り。1851の「糸の細しさ」は、しだれ柳の長く垂れ下がった枝が糸に似ているところからの称。「細(くは)し」は、他に「麗し」「妙し」とも書かれ、細部まで精妙で、完璧・完全である意。「い間」の「い」は接頭語。「子」は、女の愛称。「もがも」は、願望。

 1852の「ももしきの」は「大宮」を讃えての枕詞。「大宮人」は、宮中に仕える役人。「かづらける」は、縵の動詞化で、木の枝などを巻いて髪飾りにすること。1853の「柳の眉」は、眉の形に似た柳の若葉。漢語の「柳眉」を翻読したもので、作者は、ある程度の身分の官吏だったと想像されます。「し」は、強意の副助詞。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引