訓読 >>>
1424
春の野にすみれ採(つ)みにと来(こ)しわれぞ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝(ね)にける
1425
あしひきの山桜花(やまさくらばな)日(ひ)並(なら)べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも
要旨 >>>
〈1424〉春の野にすみれを摘もうとやって来たが、野の美しさに心惹かれ、一晩過ごしてしまったよ。
〈1425〉山桜が何日も続けてこのように美しく咲いているのなら、こうもひどく恋しい思いはしないのだが。
鑑賞 >>>
山部赤人の歌。1424の「春の野にすみれ採みにと」は、春先に行われる民間行事だった若菜摘み(野遊び)のことを言っています。「すみれ」は、大工の用具である墨入れの約で、花の形が似ていることに由来します。「野をなつかしみ」の「なつかしみ」は「なつかし」のミ語法で、野の美しさに心を惹かれて。「寝にける」の「ける」は「ぞ」の係り結び。古来、すみれの花は摘み取るとすぐに萎れてしまうことから、花の生命が摘み取った人の魂に移ると考えられていました。また染料としても使われていたらしく、そのすみれ摘みにやって来た赤人は、その可憐な花姿を見ているうちに心惹かれ、そこで野宿してしまったよ、と歌っています。ただ、下の句は、「恋人(野)の美しさに思わず添い寝をしてしまった」との寓意があると見る向きもあります。
作家の田辺聖子はこの歌を評し、「ここには王朝歌人の気むずかしい美学はなく、といって後期の家持の歌の繊細さとも質のちがう、『男のやさしさ』のようなものがある」といっています。人口に膾炙した歌であったらしく、『古今集』仮名序には、高く評価される赤人の代表作として、この歌が挙げられています。また、『源氏物語』にも「野をなつかしみ明かしつべき夜を」「野をむつまじみ」のように引歌されています。
1425の「あしひきの」は「山桜花」の枕詞。「日並べて」は、日数を重ねて。「かく」は、このように。「いたく」は、ひどく、甚だしく。原文「甚」で、イト、イタモ、ハダなどとも訓まれます。「恋ひめやも」の「や」は、反語。「も」は、詠嘆。桜の盛りの短さを思い、強い憧れの気持ちを寄せている歌です。いずれの歌も、自然に対して人間同士の情愛にも似た態度で接しており、詩人の大岡信は、「赤人の歌は、現在眼前にある世界だけで充足している気持ちを歌うのではなく、むしろ不充足感と背中合わせの心理状態で眼前の対象に向き合っているところがあり、それが彼の歌に一種の心優しい奥行きのようなものを生んでいる」と評しています。
山部赤人は奈良時代の初期から中期にかけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)で、大伴旅人・山上憶良より少しおくれ、高橋虫麻呂とほぼ同時期の人です。もともと山守部(やまもりべ)という伴造(とものみやっこ)の子孫らしく、また伊予の豪族、久米氏の末裔とも言われています。古くから人麻呂と並び称せられ、とくに自然を詠じた叙景歌にすぐれているとされます。
係り結び
文中に「ぞ・なむ・や・か・こそ」など、特定の係助詞が上にあるとき、文末の語が終止形以外の活用形になる約束ごと。係り結びは、内容を強調したり疑問や反語をあらわしたりするときに用いられます。
①「ぞ」「なむ」・・・強調の係助詞
⇒ 文末は連体形
例:~となむいひける
②「や」「か」・・・疑問・反語の係助詞
⇒ 文末は連体形
例:~やある
③「こそ」・・・強調の係助詞
⇒ 文末は已然形
例:~とこそ聞こえけれ