大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

今日今日と我が待つ君は・・・巻第2-224~225

訓読 >>>

224
今日今日(けふけふ)と我(わ)が待つ君は石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも

225
直(ただ)の逢(あ)ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ

 

要旨 >>>

〈224〉お帰りは今日か今日かと、待ち焦がれていたあなたは、石川の貝にまじっているというではないですか。

〈225〉もう、じかにあなたとお逢いすることは、とうていできないのでしょう。せめて火葬の煙が雲となって石川に立ち渡ってほしい、それを見ながら、あなたをお偲びしたい。

 

鑑賞 >>>

 柿本人麻呂の妻だった依羅娘子(よさみのをとめ)が、亡くなった夫を思い作った歌です。依羅娘子は、人麻呂が石見国から京に上る時に別れを惜しんだ(巻第2-131~134135~137138~139)ところの妻と同一人です。

 224は、人麻呂の使いがその変事を知らせにきた時の驚き慌てた心で、なかばは使の知らせを繰り返して言い、その事を自分に言い聞かせようとしているかのようです。「石川」については、下述。「貝」は原文「貝」ながら、峡(かひ)すなわち渓谷とする説があり、それによると「石川の峡に入り込んでいるというではないですか」のような解釈になります。225では、深く悲しみつつも、その悲しみを抑え、落ち着いて、思い得る限りのことを詠っています。「直の逢ひ」は、直接に逢うこと。「逢ひかつましじ」は、逢えなくなるのでしょう。

 依羅娘子の呼称は、河内国丹比郡依羅郷にちなんでいるとされます。依羅氏は同地を本拠とした氏族で、大阪市住吉区庭井には、現在も大依羅神社があり、その一帯が丹比郡依羅郷です。すぐ南側を大和川が流れており、歌にある「石川」は、その大和川の支流の石川だとする説があります。そうすると、人麻呂は、藤原京から二上山の南側の竹内峠を越えて、石川を渡り、娘子のもとに通っていたことになります。しかし、人麻呂が前述の別れを惜しむ歌を詠んだ時には、娘子は石見にいたはずです。石川は、石見国の鴨山と考えられている地域にある川で、江の川と見る説もあるので、さまざまに混乱が生じています。

  その「鴨山」が何処かについて、斎藤茂吉は、それまでの諸説を退け、自分のイメージに合う「鴨山」を探そうとしました。223の「岩根しまける」から岩の多い高い山、依羅娘子は石見の女であり国府にいたとすると、そこから近くはない場所のはず、224の「石川の貝」は「峡(かひ)」であり、「石川」は225の「雲立ち渡れ」から、石見の大河の「江の川」に違いない。そのような想像をもとに現地で実地踏査を始めました。苦労の末に、島根県邑智郡粕淵村に「亀」の地を見つけ、「カモ」の音に通じることから、その近くの「津目山」を鴨山と決めました。1934年7月のことで、茂吉は「鴨山考」として発表します。しかし、その6年後に、茂吉はこの説を修正します。近隣の「湯抱(ゆがかい)」の役場の土地台帳に「鴨山」の地名が載っているのを知らされたからです。それにより遂に「鴨山」を確定し、霧が晴れた思いで歌を詠みます。

 人麿のつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ
 
 なお、依羅娘子の歌の次に、丹比真人(たじひのまひと:伝未詳)が、人麻呂の心になり代わって答えた歌というのが載っています。

226荒波に寄り来る玉を枕に置き我(わ)れここにありと誰れか告げなむ
 
 その意味は、「荒波に打ち寄せられてきた玉を枕元に置き、私は横たわっている。それを妻に告げてくれる人は誰かいないか」というものです。娘子の224の歌から、人麻呂が海辺に倒れて寝ているものと想像して詠んだ歌と見られます。

 

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

『万葉集』の年表