大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

いかにして忘れむものぞ我妹子に・・・巻第11-2595~2599

訓読 >>>

2595
夢(いめ)にだに何かも見えぬ見ゆれども吾我(われ)かも迷(まと)ふ恋の繁(しげ)きに
2596
慰(なぐさ)もる心はなしにかくのみし恋ひや渡らむ月(つき)に日(ひ)に異(け)に [或る本の歌にいふ 沖つ波しきてのみやも恋ひわたりなむ]

2597
いかにして忘れむものぞ我妹子(わぎもこ)に恋はまされど忘らえなくに

2598
遠くあれど君にぞ恋ふる玉桙(たまほこ)の里人(さとびと)皆(みな)に我(あ)れ恋ひめやも

2599
験(しるし)なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝(ぬ)らむ子ゆゑに

 

要旨 >>>

〈2595〉どうして夢にさえ見えないのだろう、いや見えているのに分からないのだろうか、恋の苦しさのために。

〈2596〉心の慰むことはなく、こんなにも恋続けなければならないのか、月に日にますます。(絶える間なしに、ひたすら恋い続けているのかな)

〈2597〉どうしたら忘れられるだろう。あの子への恋心は増しこそすれ、とうてい忘れられないことだ。

〈2598〉遠く離れていますが、私はあなただけに恋い焦がれています。この里のどの人にも恋い焦がれるなどありましょうか。

〈2599〉甲斐もない恋をしたものさ。夜になると、ほかの男の手枕で寝るであろうあの娘のために。

 

鑑賞 >>>

 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2595の「夢にだに」は、夢にだけでも。「何かも見えぬ」の「かも」は疑問の係助詞で、どうして見えないのだろう。「迷ふ」は、混乱して見定めかねている意。男の歌で、相手がこちらを思えば夢になって見えるという俗信が背後にあります。2596の「慰もる」は「慰むる」と同じ。「かくのみし」の「し」は強意の副助詞で、このようにばかり。「異に」は、いよいよ、ますます。男の片恋の苦しさを嘆いた歌とされます。

 2597の「いかにして忘れむものぞ」は、どうしたら忘れられるだろう。「忘らえなくに」は、忘れられないことだ。2598の「玉桙の」は、本来「道」の枕詞ながら、ここでは「里」の枕詞。「恋ひめやも」の「やも」は、反語。いつも顔を合わせる里の男皆に自分は恋などしない、めったに逢えないあなただけを思っている、と言っています。

 2599の「験なき」は、甲斐がない。「恋をもするか」の「か」は、詠嘆。「夕されば」は、夕方になるといつも。「手まきて」は、腕を枕にしてで、共寝をする意。「寝らむ」の原文「将寐」でネナムと訓むものもあります。「らむ」は現在推量ですが、ネナムだと「寝ているに違いない」のような意になります。相手のいる人妻に恋してしまった男の嘆きの歌で、この時代の夫婦は同棲せず、しかも関係を秘密にしている場合が多かったため、人妻であるのを知らずに懸想してしまうことが起こりやすかったのです。

 

 

相聞歌の表現方法

万葉集』における相聞歌の表現方法にはある程度の違いがあり、便宜的に3種類の分類がなされています。すなわち「正述心緒」「譬喩歌」「寄物陳思」の3種類の別で、このほかに男女の問と答の一対からなる「問答歌」があります。

正述心緒
「正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶる」、つまり何かに喩えたり託したりせず、直接に恋心を表白する方法。詩の六義(りくぎ)のうち、賦に相当します。

譬喩歌
物のみの表現に終始して、主題である恋心を背後に隠す方法。平安時代以後この分類名がみられなくなったのは、譬喩的表現が一般化したためとされます。

寄物陳思
「物に寄せて思ひを陳(の)ぶる」、すなわち「正述心緒」と「譬喩歌」の中間にあって、物に託しながら恋の思いを訴える形の歌。譬喩歌と著しい区別は認められない。

『万葉集』掲載歌の索引

歌風の変遷について