訓読 >>>
4367
我(あ)が面(もて)の忘れも時(しだ)は筑波嶺(つくはね)を振り放(さ)け見つつ妹(いも)は偲(しぬ)はね
4368
久慈川(くじがは)は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)にま楫(かぢ)しじ貫(ぬ)き我(わ)は帰り来(こ)む
要旨 >>>
〈4367〉私の顔を忘れそうになった時は、筑波の峰を振り仰いでは、お前さんは私のことを偲んでくれ。
〈4368〉久慈川よ、変わらぬ姿で待っていてくれ。潮船に櫂をたくさんつけて急いで私は帰って来るから。
鑑賞 >>>
常陸国の防人の歌。作者は、4367が茨城郡(うばらきのこおり)の占部小竜(うらべのおたつ)、4368が丸子部佐壮(まろこげのすけお)。
4367のの「面(もて)」は「おもて」の訛り。「忘れも」は、忘レムの訛り。「時(しだ)」は「時」の古語。「筑波嶺」は、筑波山。「偲はね」の「ね」は、願望の助詞。なお、4367と類想の歌が、巻第14の「東歌」の中にあります。
〈3515〉我が面の忘れむ時(しだ)は国溢り嶺に立つ雲を見つつ偲はせ
〈3520〉面形(おもかた)の忘れむ時(しだ)は大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ
遠い旅先にある間、男は、相手の女が自分の顔をはっきりと目に浮かべてくれることを必要とし、もし、はっきり浮かばない時には、空の雲を眺めて思うと浮かんでくるという信仰があったようです。4367の歌も、常陸国の高山である筑波山にいつも雲がかかっていることを踏まえて言っています。
4368の「久慈川」は、福島県に発し東に流れ、太平洋に注ぐ川。「幸(さけ)く」は、サキクの訛り。「潮船」は、海上を行く船で、河船に対しての称。「ま楫しじ貫き」は、楫をいっぱい通して。窪田空穂は、「この防人は、久慈河との別れを惜しみ、河を祝って、わが勢よい帰りを待てといっているのである。こうした特殊なことをいっているのは、この防人の生活は久慈河に深いつながりがあり、河船を漕ぐことを業としているところからのことであろう」と述べています。
「妹」と「児」の違い
「妹」は、男性が自分の妻や恋人を親しみの情を込めて呼ぶ時の語であり、古典体系には「イモと呼ぶのは、多く相手の女と結婚している場合であり、あるいはまた、結婚の意志がある場合である。それほど深い関係になっていない場合はコと呼ぶのが普通である」とあります。しかし、「妹」と「児」とを、このように画然と区別できるかどうかは、歌によっては疑問を感じるものもあります。ただ、大半で「妹」が「児」よりも深い関係にある女性を言っているのは確かでしょう。
また、例外的に自分の姉妹としての妹を指す場合もあり(巻第8-1662)、女同士が互いに相手を言うのに用いている場合もあります(巻第4-782)。