大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

秋づけば尾花が上に置く露の・・・巻第8-1564~1565

訓読 >>>

1564
秋づけば尾花(をばな)が上に置く露(つゆ)の消(け)ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも

1565
我(わ)が宿(やど)の一群萩(ひとむらはぎ)を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも

 

要旨 >>>

〈1564〉秋めいてくると、尾花の上に置く露のように、私は、はかなく消えて死にそうに思われます。あなたが恋しくて

〈1565〉私の庭に群れて咲く萩の花を、あやうく恋しい人に見せないまま、ほとんど散らしてしまうところでした。

 

鑑賞 >>>

 1565は、曰置長枝娘子(へおきのながえおとめ:伝未詳)が、大伴家持に贈った歌。1565は、家持が返した歌。1564の「秋づけば」は、秋めいてくると。「尾花」は、ススキの穂。上3句は「消」を導く譬喩式序詞。「消ぬべくも」の「消」は、序詞との関係では露の消えやすい意、下句との関係では、恋の切なさに死にそうにも、の意。「消ぬべくも我れは」は、句中に単独母音アを含む、許容すされる字余り句。秋の景物である尾花に置く露を持ち出して、恋の切なさを訴えた歌です。

 1565の「宿」は、家の敷地、庭先。「一群萩」は、一群の萩の花。「ほとほとに」は、もう少しのところで。純情な娘子の恋の訴えにも関わらず、家持はもっぱら秋のあわれを言っています。婉曲に来意を促したもののようですが、あまり熱意は感じられず、詩人の大岡信は、応答の歌としては少々ピンボケ気味で、純情可憐な乙女の恋の告白も、これではちょっとかわいそうだと指摘しています。

 

 

 

万葉集』の字余り句

 和歌(短歌)は、5・7・5・7・7の31文字を定型としますが、5文字が6文字に、7文字が8文字に超過する句がある場合は「字余り」と呼ばれます。近代以降の和歌にも字余りを詠みこむ例がありますが、それらの字余りに特段の法則があるわけではありません。しかし、『万葉集』など古代の字余りには一定の法則が認められ、それを発見したのは、江戸時代後期の国学者本居宣長です。すなわち、句中に「あ・い・う・え・お」のいずれかの単独母音を含むと字余りをきたすというものです。上の歌(1298)でいえば、結句の途中に母音アを含む8文字の字余りになっています。この場合、アが準不足音句になるので、7音節と見るのです。

 もっとも、句中に母音音句を含めば、すべてが字余りになるかというとそうではなく、非字余りの句も存在します。また、従来、母音音句を含まず字余りで訓まれてきたものを、諸氏の本文批判や訓法によって5・7文字に改訓されてきた中にあって、母音音句を含まずに字余りと認められるものも僅かながら存在しています。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引