大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

竹取の翁と乙女らの歌(1)・・・巻第16-3791~3793

訓読 >>>

3791
みどり子の 若子髪(わかごかみ)には たらちし 母に抱(むだ)かえ ひむつきの 這児(はふこ)髪には 木綿肩衣(ゆふかたぎぬ) 純裏(ひつら)に縫ひ着(き) 頚(うな)つきの 童髪(わらはがみ)には 結(ゆ)ひ幡(はた)の 袖(そで)つけ衣(ごろも) 着し我(わ)れを 丹(に)よれる 子らがよちには 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛(くし)持ち ここにかき垂(た)れ 取り束(つか)ね 上げても巻きみ 解き乱(みだ)り 童(わらは)になしみ さ丹(に)つかふ 色になつける 紫(むらさき)の 大綾(おほあや)の衣(きぬ) 住吉(すみのゑ)の 遠里小野(とほさとをの)の ま榛(はり)持ち にほほし衣(きぬ)に 高麗錦(こまにしき) 紐(ひも)に縫(ぬ)ひつけ 刺部(さしへ)重部(かさねへ) なみ重ね着て 打麻(うちそ)やし 麻続(をみ)の子ら あり衣(きぬ)の 財(たから)の子らが 打ちし栲(たへ) 延(は)へて織る布 日ざらしの 麻手(あさて)作りを 信巾裳(ひらみ)なす 脛裳(はばき)に取らし 若やぶる 稲置娘子(いなきをとめ)が 妻(つま)どふと 我(わ)れにおこせし 彼方(をちかた)の 二綾下沓(ふたあやしたぐつ) 飛ぶ鳥の 明日香壮士(あすかをとこ)が 長雨(ながめ)禁(さ)へ 縫ひし黒沓(くろぐつ) さし履(は)きて 庭にたたずみ 退(そ)けな立ち 禁娘子(さへをとめ)が ほの聞きて 我れにおこせし 水縹(みはなだ)の 絹の帯(おび)を 引き帯なす 韓帯(からおび)に取らし わたつみの 殿(との)の甍(いらか)に 飛び翔(か)ける すがるのごとき 腰細(こしぼそ)に 取り装(よそ)ほひ まそ鏡 取り並(な)め懸けて おのがなり かへらひ見つつ 春さりて 野辺(のへ)を廻(めぐ)れば おもしろみ 我れを思へか さ野(の)つ鳥 来鳴き翔(かけ)らふ 秋さりて 山辺(やまへ)を行けば なつかしと 我れを思へか 天雲(あまぐも)も 行きたなびく かへり立ち 道を来れば うちひさす 宮女(みやをみな) さす竹の 舎人壮士(とねりをのこ)も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰(た)が子ぞとや 思はえてある かくのごと せらゆる故(ゆゑ)し いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日(けふ)やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと せらゆる故し いにしへの 賢(さか)しき人も 後の世の 鑑(かがみ)にせむと 老人(おいびと)を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり

3792
死なばこそ相(あひ)見ずあらめ生きてあらば白髪(しろかみ)子らに生(お)ひずあらめやも

3793
白髪(しろかみ)し子らに生(お)ひなばかくのごと若けむ子らに罵(の)らえかねめや

 

要旨 >>>

〈3791〉私が赤ん坊の産毛髪のころには、上等の布にくるまれてで母に抱かれ、稚児になると木綿のちゃんちゃんこを着せられ、髪を首まで切りそろえた童頭のころには絞り染めの袖つきの着物を着ていた。薄桃色の頬のあなたがたと同じような年頃になると、黒髪を上物の櫛でかいて前に垂らし、取り束ねて巻き上げてみたり、あるいは解き乱してざんばら髪にしたものだ。赤みを帯び心惹かれる紫染めの大綾模様の着物に、住吉の遠里小野の、あの高級な榛の実で染めた上着に、高麗錦の紐を飾りに縫いつけ、その上、刺部や重部を重ねて着飾ったものだ。麻を摘む娘や機織りの娘がこさえた白布、日にさらした真っ白な麻衣を、美しい屋根のように盛り上がり、ひれをなした上着を羽織っていた。若さにあふれ、どんな男も否としてきた稲置娘子が結婚しようと贈ってよこした二色の綾織りの足袋と、明日香の工男がどんな長雨でも平気と縫ってくれた黒靴を履いて娘子の家の庭に立っていると、「去れ、そこに立つな」と家の者が咎めるのを聞いた禁娘子が、こっそりと私に贈ってくれた薄青色の絹の帯を、紐のように韓帯にして、海神の御殿の屋根を飛び回るジガ蜂のように、細腰の格好に装い、その自分を鏡に映して何度もほれぼれしたものだ。春がやってきて野辺を行けば、野の鳥までが近寄ってきて鳴きながら飛び回る。秋になって山辺を行けば、天雲までも私に惚れ込んでなびいてくる始末。帰り道で都大路にさしかかると、女官たちも舎人たちも、ちらちらと振り返って見ては、どこの若様かと思われたものだ。こんなふうにちやほやされて、その昔は時めいていた私が、今となれば、あなたがたのような若い方にどこのじじいかと侮られるなんて。とかく年寄りはこんな目にあうものだから、古き世の賢人は、後の世の鑑とするように、じいさんを捨てに行った車を持ち帰ったとさ、持ち帰ったとさ。
 
〈3792〉若くして死んでしまったならば、こんな目にあわずにすんだのに。でも、生きていれば、白髪はあなたがたにも生えてくるんですよ。

〈3793〉もしも白髪があなた方に生えて来たなら、あなた方だって今の私のように若い子たちから馬鹿にされずにいられるはずはないでしょう。

 

鑑賞 >>>

 題詞の説明を要約すると、次のようになります。

 昔、竹取の翁(おきな)と呼ばれる老人がいた。この翁が、春の終わりの3月に、丘に登って遠くを眺めていたところ、たまたま汁物を煮ている9人の乙女らに出会った。溢れんばかりのなまめかしさはたとえようもなく、花のような美しさは比べるものがないほどだ。すると、乙女らが、翁を呼んでからかい半分に言った。「おじいさん、ここに来て焚火の火を吹いてくださいな」。翁は「いいよ」と答え、ゆっくりと近づいて行き、その座に加わった。しばらくすると、乙女らは皆くすくす笑い出し、「誰がこのおじいさんを呼んだの」と互いに責め立てて言った。そこで翁は、「思いもかけず、偶然に仙女の方々にお目にかかり、動揺する心を抑えようがありません。馴れ馴れしく近づいた過ちは 歌を歌ってお許し願いたいと思います」と謝罪した。そして作った歌。

 3791の「みどり子」は、赤子。「若子」は、幼児。「たらちし」は「母」の枕詞。「ひむつき」は、語義未詳ながら、くるむ物、背負う帯などのことか。「這児」は、這うことのできる稚児。「童髪」は、肩のあたりで切り揃えた子供の髪型。「結ひ幡」は、絞り染め、くくり染め。「よち」は、同じ年頃。「蜷の腸」は「か黒し」の枕詞。「さ丹つかふ」は、赤みを帯びている。「紫の大綾の衣」について、紫の着物は最上級の身分の人が着る衣服。大綾は模様の大きさを表し、当時の機織りでは大きな模様を織り出すのはとても困難だったといいます。「遠里小野」は、大阪市住吉区の地名。「ま榛」は、茶色の染料に用いる榛(ハンノキ)。「刺部重部」は、語義未詳。「打麻やし」は「麻続」の枕詞。「麻続の子ら」は、麻糸を作る職人。「あり衣の」は「財」の枕詞。「財の子ら」は、布を織る職の財部(たからべ)の女性。「稲置娘子」は、稲置の姓の乙女。「彼方」は、大阪府富田林市の地名。「二綾下沓」は、二色の綾織の足袋。「飛ぶ鳥の」は「明日香」の枕詞。「退けな立ち」は、去れ、そこに立つな。「水縹」は、淡い藍色。「わたつみ」は、海の神。「すがる」は、ジガバチ。「まそ鏡」は、澄んだ鏡。「うちひさす」「さす竹の」は、それぞれ「宮女」「舎人」の枕詞。「舎人壮士」は、天皇・皇族の近くに仕え、雑務や警護をする者。「ささしき」は、語義未詳。「はしきやし」は、ああ、あわれの意。「いにしへの賢しき人」のくだりは老子伝にある、父に命じられ、祖父を乗せて捨てに行った手車を持ち帰り、父の時にも使うからといって諫めたという原穀説話(※)のこと。

 3792の「こそ~め」は、逆説条件法。「めやも」は、反語。3793の「白髪し」の「し」は、強意の副助詞。「かくのごと」は、今の私のように。「罵る」は、悪口を言う。「や」は、反語。

 

 この独特な歌について、窪田空穂は、次のように解説しています。

「この歌は、作者の思想方面においても、また表現の技巧方面においても、きわめて特殊なものであって、その意味では本集を通じて他に例のないほどのものである。思想方面については、(中略)この歌は竹取の翁の九人の仙女を相手にして詠んだものであるが、翁は仙女を神仙界の特殊な存在として認めず、人間界の翁とともに生存している普通の娘子と同じ者として物をいっているのである。その縷々として語り続けていることは、神仙界の者には解し難いほどに人間的なものである。その中で最も重大なことは、仙女も時が来ると老を免れ難く、若かった自分が老翁となったと同様に老婆となると決めて物をいっていることである。不老長寿を唯一の特色としている神仙界の者にこういうことをいうのは、甚しい侮辱であるが、翁はそれを敢えてしているのである。これは翁は、神仙界を認めていないということである。このことは現在からいうと何事でもないが、この作者が生存していた時代の知識人としては、きわめて異とすべきことである。神仙思想からいうと、本集の時代は、その発展、隆盛の時代であったことはしばしば触れていっているとおりで、ことに奈良朝時代は、神仙思想の展開としての祥瑞思想は、宮廷の上に深く根を下ろし、屡次(るじ)の改元のごときも一にそれによって行なわれていたのである。その間にあって、神仙界を認めないといぅ態度は、まことに異とすべきものである。

 またこの歌は、一見、青春を恋い、老齢を嘆いているもののごとくみえるが、必ずしもそうしたものではないことである。翁はその青春時代、はなやぎ騒いで過ごしたことを、きわめて精細に語っているが、しかし現在の老齢に対してのことは全然いっていず、ほとんど意識していないがようである。その青春の時期を語るのも、それを思い返すことによって、老齢の現在との相違を確認しようとするためであるらしく、その結末において、『かくぞ為来し』という、特殊な形である独立文を据えていることでも明らかである。さらにまた、その老齢を嘆いていないことは、仙女に厭われることによって、初めてその老齢のためであることを意識して、重ねて「かくぞ為来し」といっているので明らかである。これは、時の推移に伴って来る老は、生命ある一切に対しての道理であるとし、道理に随順する心よりその老を忘れ、超越しているとしたのであろう。仙女にも当然に老が来るものとし、平然としてそれをいっているのは、仙女も生命あるものである以上、道理は免れ難いとしてのことと解される。これは一と口にいえば、儒教の立場より神仙思想を否定したものであって、竹取の翁の言はすなわち作者の心なのである。ついでにこの歌の青春時代を力強く描いているにもかかわらず、女色ということにはわずかに触れているだけで立ち入っていない点も、儒教的だといえよう」。

 幼い頃から裕福で、若い日にはよくモテたという、竹取の翁によるやや眉唾的な回顧譚ではありますが、実に生き生きとした不思議な歌いぶりであり、翁を囲む仙女たちよりもかえって謎めいた存在のように感じられるところです。

 

竹取の翁と乙女らの歌(2)

竹取の翁と乙女らの歌(3)

 

原穀説話

 上掲(※)の「原穀説話」について、もう少し詳しく記述します。

 原穀は、父が、年老いた祖父を手車(輿)に載せて山に捨てに行ったのに同行した。祖父を置いて帰る時、原穀が、手車を持って帰ろうとすると、父が「なぜ持ち帰るのか」と尋ねた。原穀は、「次はお父さんをこれに載せる」と答えた。それを聞いた父は後悔して祖父を連れ帰った、というものです。

作者は誰?

 ここの長短歌の作者がどんな人物だったかについて、伊藤博は次のように述べています。

 ―― こうした作をまとめあげるについて相当に力量のある歌人がいたことは疑う余地がないけれども、残念ながら、それが誰であるかはわからない。最も強く取沙汰されているのは山上憶良(松岡静雄『有由縁歌と防人歌』、中西進万葉集比較文学的研究』など)。ほかに高橋虫麻呂を擬する説もある(神田秀夫論稿集三『万葉集の技法』Ⅳ)。しかし、部分はともかく、全体の呼吸、用語などを思うに、この歌の最終段階の作者としては、万葉の専門歌人の誰をも想定しにくいように思う。巻一の藤原役民の歌(50)などと同様、専門歌人以外に、こういうまとめをなし得る有識の人が当時存在したと考える方が穏当であろう。その意味で、『新考』に、「此歌は構想措辞共に頗常に異なる所あり。おそらくは漢文学に耽りし異俗先生の作ならむ」と述べているのが、興を引く。下級官人といえども、当時の人びとは学がすこぶる深かった。末四巻にたくさんの詩歌を登録する大伴池主は五位に至らずして他界した。――

『万葉集』掲載歌の索引