大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

君来ずは形見にせむと・・・巻第11-2483~2485

訓読 >>>

2483
敷栲(しきたへ)の衣手(ころもで)離(か)れて玉藻(たまも)なす靡(なび)きか寝(ぬ)らむ我(わ)を待ちかてに

2484
君(きみ)来(こ)ずは形見(かたみ)にせむと我(わ)が二人(ふたり)植ゑし松の木(き)君を待ち出(い)でむ

2485
袖(そで)振らば見ゆべき限り我(わ)れはあれどその松が枝(え)に隠(かく)らひにけり

 

要旨 >>>

〈2483〉共寝の袖も離れ離れのまま、あの子は一人で玉藻のように黒髪をなびかせて寝ているだろうか、この私を待つことができずに。

〈2484〉あなたがいらっしゃらない時は、眺めて思い出そうと、二人で植えた松の木です。だから、待ったら必ず来てくれるでしょう。

〈2485〉あなたが袖を振ったら見える限りはと立っていたけれど、あの人の姿は遠ざかっていき、とうとう松の枝に隠れてしまった。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から、「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」3首。2483の「敷栲の」の「敷栲」は、敷物にする栲では「衣」の枕詞。「衣手」は、袖。「玉藻なす」は、玉藻のように。「らむ」は、現在推量。「待ちがてに」は、待つことができずに。妻の許に行くことのできなかった男の歌で、自分を待ちかねて独りで寝る妻を思いやっています。その官能的なところを、斎藤茂吉は「一種の恋歌」と言い、「衣手離れて」という言い方も「注意していいと思う表現である」と述べています。

 2484の「君来ずは」は、あなたが来ない時には。「形見」は、その人の代わりとして見る物。「松の木」はここで句切れになっており、松の木よ、と呼びかけた形になっており、「松」に「待つ」を掛けています。「待ち出でむ」は、待っていたものに出逢うだろう、の意。男に疎遠にされている切ない女心を歌ったものではありますが、この歌からは、この時代のカップルも、現代と同様、ガーデニングを楽しんでいたことが分かります。

 2485の「袖振らば」の原文「袖振」で、ソデフルガ、ソデフリテなどと訓むものもあります。「見ゆべき限り」の原文「可見限」で、ミツベキカギリと訓むものもあります。「隠らひにけり」の原文「隠在」で、カクリタリケリと訓むものもあります。男女の朝の別れに際し、男が別れを惜しむしぐさをしているのを見送っている女の歌であり、窪田空穂は、「男女の朝の別れを、女が見送りをするという一点に捉え、それを時間的にあらわしたもので、(中略)抒情をとおして叙事をする、人麿歌集特有の詠み方の歌である」と述べています。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

歌風の変遷について