大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

宴席の歌(9)・・・巻第20-4496~4500

訓読 >>>

4496
恨(うら)めしく君はもあるか宿(やど)の梅の散り過ぐるまで見しめずありける

4497
見むと言はば否(いな)と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ

4498
はしきよし今日(けふ)の主人(あるじ)は礒松(いそまつ)の常(つね)にいまさね今も見るごと

4499
我(わ)が背子(せこ)しかくし聞こさば天地(あめつち)の神を乞(こ)ひ祷(の)み長くとぞ思ふ

4500
梅の花(はな)香(か)をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ

 

要旨 >>>

〈4496〉何と恨めしいお方であることか。お庭の梅が散りすぎるまで、見せて下さらなかったとは。

〈4497〉見たいと言ってくだされば、否と言うはずがありません。梅の花が散りすぎるまで、あなたがおいでにならなかっただけです。

〈4498〉慕わしい今日のご主人は、お庭の磯の松のようにいつも変わらずいて下さい。今こうして拝見しているままに。

〈4499〉あなたがそんなにおっしゃって下さるのなら、天地の神々に祈って、長生きしようと思います。

〈4500〉お庭の梅の花の香り高さに、遠く離れていますが、心一途にあなたのことをお慕いしています。

 

鑑賞 >>>

 天平宝字2年(758年)2月、式部大輔(しきぶのだいぶ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)の家で宴会をしたときの歌15首のうちの5首。式部大輔は、式部省の次官。清麻呂は、その後の宝亀2年(771年)に右大臣従二位、同3年に正二位にまで昇任した人です。朝廷の儀式のことをよく知る老臣であり、高位の官職にあって、年老いても精勤で怠ることがなかったといいます。そんな清麻呂を敬愛する大伴家持をはじめとした文雅の士が、平城京右京二坊二条(平城京の西南)にある邸宅に集まりました。ときに、清麻呂57歳、家持は41歳だったとされます。

 4496は、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おおはらのいまきまひと)の歌。治部少輔は、治部省の二等官。「君はもあるか」の「君」は、主人の清麻呂のこと、「か」は感動の助詞。「見しめ」の「しめ」は、使役の助動詞。4497は、それに応じた主人の中臣清麻呂の歌。「見むと言はば」は、見たいと言いさえすれば。「否と言はめや」の「や」は、反語。「来まさぬ」の「来ます」は、おいでになる、「ぬ」は打消・連体形。列席者の中でいちばん身分の低い今城が最初に歌っており、しかも主人を「恨めしい」といって咎めているのは、この日の宴が無礼講であったのか、興味深いところです。

 4498は、右中弁(うちゅうべん)大伴家持の歌。右中弁は、太政官右弁官局の次官。「はしきよし」は、ああ慕わしい。「磯松」は、磯の上に生えている松。おそらく清麻呂の邸宅の庭には池があり、その池に岩が配されて、松が植えられていたと見られます。「の」は、~のように。4499は、それに答えた主人の中臣清麻呂の歌。「我が背子」は、家持のこと。「聞こさば」は「言はば」の敬語で、おっしゃってくださるのなら。「神を乞ひ祷み」は、神仏に身の無事を乞い祈って。この宴は、清麻呂の長寿を寿ぐ宴会だったのかもしれません。

 4500は、治部大輔(じぶのだいふ)市原王(いちはらのおおきみ)の歌。市原王は、志貴皇子の曾孫。治部大輔は、治部省の次官。上2句は、梅の花の香りがよいので遠くまで匂う意で、「遠けども」を導く序詞。「心もしのに」は、心も萎えるほど一途に、の意を表す副詞句で慣用句。梅の香に寄せて主人の徳を賛美している歌で、『万葉集』には「梅の花」を詠んだ歌は数多くありますが、「梅の香」を詠んだのは唯一の例だといいます。『古今集』に至って増加する梅香の歌の源流といえます。

 

 

宴席のあり方

 当時の宴には、一定の約束事がありました。宴には、原則として主人(あるじ)と正客(しょうきゃく:主賓)とがおり、他の客はいわば正客のお相伴にあずかるような形でした。そして、宴は基本的に夜通し行われました。このような宴のあり方は、その起源である神祭りと関係します。祭りの本質は、神を迎えて饗応することにあり、宴はその饗応に起源をもちます。宴の正客が神に対応し、主人は祭り手の立場に重ねられ、宴が徹夜で行われるのも祭りのあり方を受け継ぐものです。

 宴の次第についても原則があったらしく、まず客を迎える主人が歓迎の言葉を述べ、客もまた招かれたことへの感謝の意を示します。酒杯の取り交わしにも、それぞれの挨拶が求められました。宴が果てると、客からもてなしの礼と辞去の言葉が、また主人から引き留めの言葉が述べられます。客は名残を惜しみつつ帰途につくことになります。そして、それらの挨拶は、歌を伴うのが通例でした。このような宴の次第は、神を迎え、饗応し、送るという祭りのあり方とぴたりと符合するのです。