訓読 >>>
4501
八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤なる松のさ枝(えだ)を我(わ)れは結ばな
4502
梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽(あ)かぬ礒(いそ)にもあるかも
4503
君が家(いへ)の池の白波(しらなみ)礒(いそ)に寄せしばしば見とも飽(あ)かむ君かも
4504
うるはしと我(あ)が思(も)ふ君はいや日異(ひけ)に来ませ我(わ)が背子(せこ)絶ゆる日なしに
4505
礒(いそ)の浦に常(つね)呼(よ)び来(き)住(す)む鴛鴦(をしどり)の惜(を)しき我(あ)が身は君がまにまに
要旨 >>>
〈4501〉さまざまの花は移ろうものですが、不変である松の木の枝を、私は結ぼうと思います。
〈4502〉梅の花がしきりに散っていく春の長い一日、ずっと見ていても見飽きない、お庭の池の磯です。
〈4503〉あなたのお庭の池に、白波がしばしば磯に寄せるように、繰り返しお逢いしても、見飽きるようなお方ではありません。
〈4504〉すばらしいと私が思っているあなた方は、毎日でもお越しください。絶える日などないように。
〈4505〉お池の磯の浦で、いつも呼び合いながらやって来て住むおしどりではないが、その惜しい命はあなたのお心のままです。
鑑賞 >>>
4496~4450に続き、式部大輔(しきぶのだいぶ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)の家で宴会をしたときの歌15首のうちの5首。
4501は、大伴家持の歌。「八千種」は、多くの種類。「移ろふ」は、花が散る。市原王の歌を受けて、「花というものは移ろうものであり、私は永遠に移ろうことのない松の枝を結んで、清麻呂様のご長寿をお祈りします」と切り返しています。4502は、大蔵大輔(おおくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごまひと)の歌。「磯」は、池のほとりの岩。家持が採り上げた松に対し、もっと不変な磯(岩)を歌っています。4503は、これを受けた家持が「ならば」と歌った歌。上3句は「しばしば」を導く序詞。各自が競って清麻呂の長寿を寿ぎ、まるで、その寵愛を競っているかのようです。
4504は、ご満悦の清麻呂の歌。「いや日異に」は、日ごとに。第5句の「絶ゆる日なしに」とほぼ同じ内容で、「君」と「我が背子」とがダブっていることなどから、宴がたけなわとなり、呂律が回らくなってきたか、との見方があります。4505は、再び大原今城真人の歌。上3句は「惜しき」を導く序詞。梅から始まった話題が、磯(岩)から池、波などに移っていくのを受けて、最後には「一命を預けるお方は、清麻呂様しかございません」とまで言っています。諧謔味のあるセリフに、気の置けない同士たちとの楽しい宴会のひとときが目に浮かぶようです。
もっとも、この時期の朝廷は、藤原仲麻呂が内相として政権を牛耳っていた時であり、その中、清麻呂は、宴に参加した人たちからは全幅の信頼を得ていた人とみえます。4501の家持の歌には、仲麻呂の専横を憎みながらも、奈良麻呂の変で身を滅ぼした人のように過激な行動には出ず、中道を歩み、命長らえて悪の自滅を待とうという意が込められているとする見方がありますが、如何でしょう。
ここまでが第1ラウンドであり、この続きがまだあります(4506~4510)。