大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

紅の八しほの衣朝な朝な・・・巻第11-2623~2626

訓読 >>>

2623
紅(くれなゐ)の八(や)しほの衣(ころも)朝(あさ)な朝(さ)な馴(な)れはすれどもいやめづらしも

2624
紅(くれなゐ)の濃染(こぞ)めの衣(きぬ)色深く染(し)みにしかばか忘れかねつる

2625
逢はなくに夕占(ゆふけ)を問ふと幣(ぬさ)に置くに吾(わ)が衣手(ころもで)はまたぞ継(つ)ぐべき

2626
古衣(ふるころも)打棄(うちつ)る人は秋風の立ち来る時に物思(ものおも)ふものぞ

 

要旨 >>>

〈2623〉幾度も染めた紅の衣が、朝ごとに汚れてよれよれになるように慣れ親しんでいるけれど、それでもあなたはますます可愛いことだ。

〈2624〉紅の色濃く染めた着物のように、心に深く染みついたせいか、忘れようにも忘れられない。

〈2625〉逢ってくれないので、夕占してを問おうと私がお供えした袖の切れ端は、また継ぎ足すようになったことだ。

〈2626〉着慣れた古着をうち捨ててしまうような人は、秋風が吹きだすころには、侘しい思いをするものです。

 

鑑賞 >>>

 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」4首。2623「紅」は、もとキク科の多年草の紅花で、その花を摘んで強い赤色の染料を製しました。「八しほの衣」は、その染料で何度も繰り返し染めた衣。上2句は「朝な朝な馴れ」を導く序詞。「朝な朝な」は、朝ごとに、毎朝。朝ごとに穢れてよれよれになる意と馴れ親しむ意とを掛けているとされますが、窪田空穂は不自然な続きであるとし、「妻の美しい譬喩とするときわめて適切なもので、それを主にしたものである」と述べ、譬喩を序詞の形にしたものと見ています。「いや」は、ますます。「めづらし」は、可愛い。多くのものは見慣れるとつまらなくなるが、わが妻はその反対で、ますます新鮮で可愛いと言っています。

 2624の「紅の濃染めの衣」は、紅に濃く染めた衣。「濃染めの衣」の原文「深染衣」で、フカゾメノキヌと訓むものもあります。以上2句は「色深く」を導く譬喩式序詞。「しかばか」の「か」は、疑問。「忘れかねつる」は、忘れることのできないことであった。染料が衣に染み込むように相手のことが心の奥深くまで入り込み、見捨てられないと、この歌も馴れ親しんだ妻を讃えています。

 2625の「逢はなくに」の「逢はなく」は「逢はず」のク語法で名詞形。逢わないことであるのに。「夕占」は、夕方に道に立ち、往来する人の言葉を聞いて吉凶を判断する占い。「幣」は、神に祈る時に供える物。来ない夫に対して、幾度も占いをして待つ妻の嘆きですが、この歌からは、幣には袖を切って供えていたらしいことが知られます。自分の着ている衣には魂が付着しているという信仰があったものの、他に同じ例がないので確実ではなく、あるいは特別なことだったかもしれません。「継ぐべき」は、切った袖をまた継ぎ足すようになったこと。

 2626の「古衣打棄つる」の「古衣」は、着古した衣で、古女房を打ち棄てて顧みない比喩。「秋風の立ち来る時」は、秋風が吹いて肌寒く衣を必要とする時で、老いを迎えるころの比喩。古いものを疎み、新しいものを愛するのが人情ではあるものの、世故に通じた第三者が警告している歌とされ、男性にとっては戒め、女性からは恨みの歌となります。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

各巻の概要