大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

青海原風波靡き・・・巻第20-4514

訓読 >>>

青海原(あをうなはら)風波(かぜなみ)靡(なび)き行くさ来(く)さ障(つつ)むことなく船は速けむ

 

要旨 >>>

青々とした海原は、風も波も穏やかで、行きも帰りもつつがなく船は速く進むでしょう。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。題詞に「(天平宝字2年)二月の十日に、内相が宅にして渤海大使(ぼっかいたいし)小野田守朝臣(をののたもりのあそみ)等を餞する宴の歌」とある1首です。「内相」は、紫微中台(しびちゅうだい:皇后宮職を改称した行政機関)の長官・藤原仲麻呂のこと。「渤海大使」は、渤海に派遣される大使で、渤海は7~10世紀初頭まで中国東北部朝鮮半島北部の、ロシアの沿海地方にかけて存在した国。渤海への旅は越前から出航するのが普通でした。 「小野田守朝臣」は、太宰少弐、遣新羅大使などを歴任した人。「風波靡き」は、風も波も穏やかで。「行くさ来さ」の「さ」は、~する時の意の接尾語で、行く時も帰りの時も。「障むことなく」は、つつがなく、障害がなく。言霊信仰から祝詞の言葉を用いて送ろうとした歌ですが、左注には「未だ詠まず」とあり、宴席では披露しなかったと見えます。

 仲麻呂は、渤海に対して関心を示し、政治経済文化などさまざまな面で相互交流を盛んにし、かたがた国際情勢についての情報を得ようとしていたとされます。渤海も、唐とその属国である新羅との間に挟まれているという地理的条件のせいもあって、日本に対して連繋を求め、これに答えて貿易を中心に交流を深めました。神亀4年(727年)以降、奈良時代を通じて11回渤海国使が来朝し、日本もたびたび遣渤海使を送っています。

 

 

家持歌の採録

 『万葉集』において家持が歌を詠んだ期間は、天平5年(733年)に始まり、天平宝字3年(759年)に終わり、家持が16歳から42歳までの年代に相当します。その間の作歌数は、長歌46首、短歌432首、旋頭歌1首の合計479首に及んでいます。

 中でも、家持が越中在任中の作歌は約220首で、さらに天平勝宝元年~2年に半数以上の130首に集中し、彼の作歌活動の頂点に達しています。家持が越中国守としての政務に慣れ、妻の坂上大嬢を任地に迎えた時期に重なっています。

 家持の歌日記的な性格をもつとされる巻第17~20については、巻第17に天平2年(730年)11月に父の旅人が大納言に任命され上京する時の関係者の歌に始まり同年20年春まで、巻第18に天平20年3月から天平勝宝2年2月まで、巻第19に同2年3月から同5年2月まで、巻第20に同5年8月から天平宝字3年正月までの歌が載せられています。いずれの巻も編年方式によって配列されています。

各巻の概要

大伴家持の歌(索引)