大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

妹がためほつ枝の梅を手折るとは・・・巻第10-2330~2332

訓読 >>>

2330
妹(いも)がためほつ枝(え)の梅を手折(たを)るとは下枝(しづえ)の露(つゆ)に濡れにけるかも

2331
八田(やた)の野の浅茅(あさぢ)色づく有乳山(あらちやま)嶺(みね)の淡雪(あわゆき)寒く散るらし

2332
さ夜(よ)更(ふ)けば出(い)で来(こ)む月を高山(たかやま)の嶺(みね)の白雲(しらくも)隠(かく)すらむかも

 

要旨 >>>

〈2330〉あの子のために梅を上枝を手折ろうとして、下枝の露に濡れてしまったことだ。

〈2331〉八田の野の浅茅が色づいてきた。有乳山の嶺では、淡雪が寒々と降ることだろう。

〈2332〉夜が更けたら出て来てもよい月なのに、高山の峰にかかっているあの白雲が隠しているのだろうか。

 

鑑賞 >>>

 2330は「露を詠む」歌。「ほつ枝」は、上に突き出た枝。「下枝」に対しての語。「手折るとは」の「は」は、強意の助詞。手折ろうとして。妻のもとへ梅の枝を贈るのに添えた歌と見え、「露に濡れにけるかも」と、いうほどの苦労ではないのを強いて言い立てていて、愛嬌のある歌です。

 2331は「黄葉(もみち)を詠む」歌。「八田」は、奈良県大和郡山市矢田か。「有乳山」は、福井県敦賀市の近江から越前へ越える山。官人として寒い北国へ旅する夫を思いやった妻の歌だろうとされます。2332は「月を詠む」歌。「隠すらむかも」は、「深けば」の未然条件法に応じさせた推量。

 

 

 

「妹」と「児」の違い

 「妹」は、男性が自分の妻や恋人を親しみの情を込めて呼ぶ時の語であり、古典体系には「イモと呼ぶのは、多く相手の女と結婚している場合であり、あるいはまた、結婚の意志がある場合である。それほど深い関係になっていない場合はコと呼ぶのが普通である」とあります。しかし、「妹」と「児」とを、このように画然と区別できるかどうかは、歌によっては疑問を感じるものもあります。ただ、大半で「妹」が「児」よりも深い関係にある女性を言っているのは確かでしょう。

 また、例外的に自分の姉妹としての妹を指す場合もあり(巻第8-1662)、女同士が互いに相手を言うのに用いている場合もあります(巻第4-782)。