訓読 >>>
1218
黒牛(くろうし)の海(うみ)紅(くれなゐ)にほふももしきの大宮人(おほみやびと)し漁(あさ)りすらしも
1219
若(わか)の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕(ゆうへ)は大和し思ほゆ
1220
妹(いも)がため玉を拾(ひり)ふと紀の国の由良(ゆら)のみ崎にこの日暮らしつ
1221
我(わ)が舟の楫(かぢ)はな引きそ大和より恋ひ来(こ)し心いまだ飽かなくに
1222
玉津島(たまつしま)見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため
要旨 >>>
〈1218〉黒牛の海が紅に照り映えている。従駕の女官たちが、岸辺で魚をとったり貝をあさったりしているらしい。
〈1219〉和歌浦に白波が立って沖から吹く風を寒く感じる夕暮れは、大和のことが偲ばれる。
〈1220〉家にいる妻のために美しい石や貝殻を拾おうと、紀の国の由良の岬に一日中過ごしてしまった。
〈1221〉私の乗る舟の梶を休めてくれ。大和からここに憧れてやって来た心は、まだ満たされてはいないのだから。
〈1222〉玉津島の美しいこと、いくら見ても見飽きない。どうやってこの島を包んで持ち帰ろうか、まだここを見ていない人のために。
鑑賞 >>>
紀伊国への行幸に従駕した藤原卿の歌。「藤原卿」とは誰を指すのかについては、神亀元年(724年)10月の紀伊行幸の時、藤原房前(ふささき)または麻呂(まろ)が作った歌という説があります。ただ、「卿」は三位以上の者につけられる尊称であり、麻呂が従三位になったのは天平元年(729年)であるため、「藤原卿」は房前とする説が有力となっています。房前は藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で、藤原北家の祖となった人物です。房前は不比等が讃岐の志度の海人に生ませた子ですが、その母が卑しい身分の自分の命と引き換えに、息子の将来を約束してもらったという伝説があります。
1218の「黒牛の海」は、いまの和歌山県海南市黒江の黒江湾。今は埋め立てられて殆どが陸地になっています。クロウシノウミと7音節になっていますが、母音のウが句の中間に2つあるので、5音節に近く詠まれたと見えます。「紅にほふ」は、女官の赤裳が美しく照り映えている。「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。ここは女官。「大宮人し」の「し」は、強意の副助詞。「漁り」は、魚介や海藻をとること。「すらしも」は、しているらしい。柿本人麻呂にも同様の情景を詠んだ歌があり(巻第1-40)、海辺に立つ女官たちの赤い裳は、官人らにとって格別に印象的だったようです。
1219の「若の浦」は、和歌山市和歌浦で、和歌浦湾の北部の海岸。「沖つ風」は、沖の海上を吹く風。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「大和し」の「し」は、強意の副助詞。「思ほゆ」は「思ふ」に自発の助動詞「ゆ」が付いたもので、思われる。前の歌の海の色彩は「紅」で、この歌は「白」、対照的な一対の情景が歌われています。1220の「玉」は、美しい石や貝。「拾(ひり)ふ」は「ひろふ」の古形。「由良のみ崎」は、和歌山県日高郡由良町の岬。窪田空穂はこの歌について、「消息の歌というにすぎないものであるが、この歌には明るく暢びやかに打上がったところがあり、貴族らしい風格を示している」と評しています。
1221の「我が舟」は、我々が乗っている舟。「な引きそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「引く」は、舟を動かすために櫓を漕ぐこと。「いまだ飽かなくに」の「飽く」は、満足する意。「なくに」は、文末にあっては「ないことだ」と詠嘆しますが、ここは1~2句の禁止について、その理由を舟子に対して説明する形になっています。1222の「玉津島」は、和歌の浦にあった小島で、現在は陸続きになっています。「包み」は、みやげとして包んで、の意。「見ぬ人」は、京にいる妻。
万葉時代の旅は、行幸の従駕、官命による出張や赴任の場合が殆どで、私用の旅や個人的な遊山は庶民のものではありませんでした。旅は、万葉人にとっては、未知の世界に触れる数少ない機会であり、海に縁のない大和の国に住み慣れた人たちは、美しい和歌の浦の景色にどれほど感動したでしょうか。旅先で思い出すのは故郷のことであり、1222の歌では、この美しい景色をみた感動を、いかに家にいる妻のために持ち帰ろうかと思案しています。