訓読 >>>
4250
しなざかる越(こし)に五年(いつとせ)住み住みて立ち別れまく惜(を)しき宵(よひ)かも
4251
玉桙(たまほこ)の道に出で立ち行く我(わ)れは君が事跡(ことと)を負(お)ひてし行かむ
要旨 >>>
〈4250〉五年もの間、越の国に住み続け、別れて旅立つことが、名残惜しくてたまらない今宵です。
〈4251〉都に出立する私は、あなたがなされた功績を、しっかり背負って行きましょう。
鑑賞 >>>
大伴家持の歌。少納言に遷任することとなった家持は、同時に大帳使に任ぜられ、8月5日に都へ向けて出発することになり、前日の4日に、介(すけ:次官)の内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の邸宅で送別の宴が開かれました。そのときに家持が作った歌が4250です。「大帳使」は、諸国の戸籍台帳を太政官に提出する使い。「しなざかる」は、幾重もの山坂を隔てた意。家持の造語で「越」の枕詞。「五年」は、満5年。「立ち別れまく」は「立ち別れむ」のク語法。この歌からは、かつて大宰府にあった山上憶良が、鄙に五年住まって都の手ぶりも忘れたと詠んだ歌(巻第8-880)が思い出されます。
5日の暁方、家持が都へ向けて出発する際、国庁の次官以下の役人たち全員で射水郡のはずれまで見送ってくれました。そのとき、射水郡の大領(だいりょう:長官)の郡司安努君広島(あののきみひろしま)が、林の中にあらかじめ餞宴の用意をしており、内蔵伊美吉縄麻呂が盃を捧げて歌を詠んだのに家持が応えた歌が4251です。当時は、親しい人が旅する時には国境まで同行し、そこで道中の無事を祈って酒杯を交わす習いでした。「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。「事跡」は、昇任や転任のもととなる成果、業績。「負ひてし」の「し」は、強意の副助詞。下2句は、今までの部下たちの労をねぎらい、彼らの心に染みる温かい言葉となっています。
天平18年(746年)
7月 国守として越中に赴任
8月 国守の館で歓迎の宴
9月 弟・書持の訃報に接し哀傷歌を作る
12月 この頃から病に臥す
天平19年(747年)
2月 越中掾の大伴池主と歌の贈答
3月 月半ばまでに回復か
3月 妻への恋情歌を作る
4月 3~4月にかけて「越中三賦」を作る
5月 このころ税帳使として入京
5月以降、池主が越前国の掾に転任
8月 このころ越中に戻る
8月 このころ飼っていた自慢の鷹が逃げる
天平20年(748年)
2月 翌月にかけて出挙のため越中国内を巡行
3月 橘諸兄の使者として田辺福麻呂が来訪
4月? 入京する僧・清見を送別する宴
10月 このころ掾の久米広縄が朝集使として入京
天平勝宝1年(749年)
3月 越前の池主と書簡を贈答
4月 従五位上に昇叙される
5月 東大寺占墾地使の僧・平栄が来訪
5月 「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」を作る
6月 干ばつが続き、雨を祈る歌と、雨が降って喜ぶ歌を作る
7月 このころ大帳使として入京
冬に越中に戻るが、この時、妻の大嬢を越中に伴ったとみられる
11月 越前の池主と書簡を贈答
天平勝宝2年(750年)
1月 国庁で諸郡司らを饗応する宴
3月 「春苑桃李の歌」を作る
3月 出挙のため古江村に出張
3月 妻の大嬢が母の坂上郎女に贈る歌を代作
4月 布勢の湖を遊覧
6月 京の坂上郎女が越中の大嬢に歌を贈る
10月 河辺東人が来訪
12月「雪日作歌」を作る
天平勝宝3年(751年)
2月 正税帳使として入京する掾の久米広縄を送別する宴
7月 少納言に任じられる
8月 帰京のため越中を離れる。途中、越前の池主宅に寄り、京から帰還途上の広縄に会う