大和の国のこころ、万葉のこころ

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白波の浜松が枝の手向けくさ・・・巻第1-34

訓読 >>>

白波(しらなみ)の浜松が枝(え)の手向(たむ)けくさ幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ [一に云ふ 年は経にけむ]

 

要旨 >>>

白波の寄せる浜辺の松の枝に結ばれた、この手向けのものは、結ばれてからもうどれほどの年月が経ったのだろうか。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「(持統4年:690年)紀伊の国に幸(いでま)す時に、川島皇子の作らす歌。或いは云ふ山上臣憶良の作れる」とあります。川島皇子は、天智天皇の第二皇子、持統天皇の弟で、天武8年(679年)5月の吉野盟約に参加した6皇子の一人。天武10年(681年)には、忍壁皇子らとともに帝紀および上古の諸事を選録(『日本書紀』編纂の始まり)、『懐風藻』に詩1首を残しています。伝によれば、大津皇子と親交があったものの、大津皇子の謀反を朝廷に密告したとされ、また事件後は苦悶に苛まれたといいます。

 「白波の」は、「寄す」などの述語を省いた枕詞的用法。「浜松」は、浜辺に生えている松。「手向けくさ」の「手向け」は神を祭るために供える物、「くさ」は料の意の語。ここは、松の枝に結びつけたものを言っています。「幾代か」の「か」は、疑問の助詞。「経ぬらむ」の「らむ」は、推量の助動詞。この歌は、30年前の斉明4年(658年)、謀反の疑いをかけられて刑死した有馬皇子を偲んでの歌とされ、浜松も、磐代の松(巻第2-141~142参照)と見られています。しかし一方で、親しかった大津皇子への思いも込められているのではないかともいわれます。

 「或は云ふ」は、山上憶良の作という伝えがあったので、巻第9(1716)にこの歌の小異歌が重ねて出ており、そこでは「山上の歌」となっています。

 

 

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