大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

言とはぬ木すら春咲き秋づけば・・・巻第19-4160~4162

訓読 >>>

4160
天地(あめつち)の 遠き初めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎ 流らへ来(き)たれ 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末(こぬれ)も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜(つゆしも)負(お)ひて 風(かぜ)交(ま)じり 黄葉(もみち)散りけり うつせみも かくのみならし 紅(くれなゐ)の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪(くろかみ)変はり 朝の笑(ゑ)み 夕(ゆふへ)変はらひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば 庭(には)たづみ 流るる涙(なみだ) 留(とど)めかねつも

4161
言(こと)とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常(つね)を無(な)みこそ [一云 常無けむとぞ]

4162
うつせみの常(つね)なき見れば世の中に心つけずて思ふ日ぞ多き [一云 嘆く日ぞ多き]

 

要旨 >>>

〈4160〉天地開闢の遥か遠い時代の始めから、世の中は無常なものだと語り継ぎ、言い伝え続けてきているので、天を仰いで見ると、照る月も満ちたり欠けたりしている。山の木々の梢も、春が来れば花は咲き匂うものの、秋になれば冷たい露を帯び、風に交じって黄葉が散る。この世の人も、やはりこのようでしかないらしい。若い時の紅の頬も色褪せ、黒々とした髪も白く変わり、朝の笑顔も夕方には消え失せる。吹く風が目に見えないように、流れる水が止まらないように、常というものがなく変わり続けていくのを見ると、溢れ出てくる涙も留めようがない。

〈4161〉物を言わない木でさえ、春には花が咲き、秋には黄葉となって散るのは、世の中が無常のゆえである。(無常ということなのだ)

〈4162〉この世の人の無常なさまを見ていると、世事に心を惑わされずにいたいが、とらわれて物思う日の多いことだ。(嘆く日の多いことだ)

 

鑑賞 >>>

 題詞に「世の中の無常を悲しぶる」とある、大伴家持の歌。4160の「天地の遠き初めよ」は、天地開闢の遥か遠い時代の始めから。「流らへ来たれ」は、伝わってきたもので。「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は、梢。「春されば」は、春になると。「露霜」は、露が凍って霜のようになったもの。「うつせみ」は、この世(の人)。「うつろひ」は、色褪せて。「かくのみならし」は、このようでしかないらしい。「紅の色も」は、紅の頬の色も。「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「庭たづみ」は、庭に溜まった雨水が流れ出す意で、「流る」に掛かる枕詞。

 4161の「言問はぬ」は、ものを言わぬ。「散らく」は「散る」のク語法で名詞形。「常を無みこそ」の「無み」は「無し」のミ語法で、常というものが無いからなのだ。4162の「世間に心つけずて」は、無常の世に惑わされずにいたいが。「思ふ日ぞ多き」は、とらわれて物を思う日の多いことだ。

 

 

 

ミ語法

 「ミ語法」とは、形容詞の語幹に語尾「み」を接続した語形を用いる語法。その意味は、「を」を伴うものは「を」が主格を表わし、「み」が原因や理由を表わすと考えられています。現存する文献の用例の大部分は『万葉集』であり、 上代以前に広く用いられたと考えられています。 中古以降は、擬古的表現として和歌にわずかに用いられました。

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)