訓読 >>>
576
今よりは城山(きやま)の道はさぶしけむ我(わ)が通(かよ)はむと思ひしものを
577
我(あ)が衣(ころも)人にな着せそ網引(あびき)する難波壮士(なにはをとこ)の手には触(ふ)るとも
578
天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家(いえ)の庭(にわ)はも
要旨 >>>
〈576〉あなたがお帰りになったこれから先、城山の道はきっと寂しくなるでしょう。お会いできるのを楽しみにせっせと通うつもりでしたのに
〈577〉私がお贈りした着物は、他の人に着せてはいけません。網を引く難波男の手に触れるのは仕方ないとしても。
〈578〉天地の続く限りいつまでも住み続けようと思っていた、この家の庭であったのに。
鑑賞 >>>
576は、大伴旅人が都に上った後に、筑後守の葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)が、嘆き悲しんで作った歌。葛井連大成は、梅花の宴の上席の一員だった人です。「今よりは」は、旅人が大宰府にいなくなってからは。「城山」は、大宰府の真南にあり、大宰府から筑後・肥前の国府に向かうには越えなければならなかった山。「道」は、城山の少し東にある両国峠を通る駅路。その道を、もう楽しい思いで通うことはないだろうと言っています。窪田空穂は「感傷の言を漏らしていないところにかえってあわれがある。国守として長官なる旅人に、その全幅を披瀝した歌といえる」と述べています。
577は、大伴旅人が、新しい袍(うえのきぬ)を摂津大夫高安王(せっつのだいぶたかやすのおおきみ)に贈った歌。「袍」は、男子の礼装の上衣。「摂津大夫」は、摂津職の長官。「高安王」は、長皇子の孫で、天平11年(739年)に大原真人の姓を賜わって臣籍に下った人。旅人が袍を贈ったのは、大宰府から帰って受けた接待に対する謝礼とされます。「我が衣」は、実際は真新しい衣であっても肌身離さず着ていたように言いなしており、高安王に対する親愛の情が込められています。「網引」は、地引き網を引く作業。「難波壮士」は、難波の浦に住んでいる男で、ここは海人(あま)の意。「人にな着せそ」の「な~そ」は、禁止。他ならぬあなたに贈るのだという親愛の情に溢れ、また「網引する難波壮士」と言って、戯れに高安王を海人(漁師)に見立てています。
578は、大伴宿祢三依(おおともおすくねみより)が別れを悲んだ歌。三依は旅人の従兄。この歌は、どこの「家」を離れるのかが不明で、旅人が亡くなったその家を離れる時の挽歌とする見方もありますが、巻第4はすべて相聞歌なので、やや無理があるようです。三依は筑紫に赴任したことが知られているので、自身が住み慣れた奈良の自邸を離れる際に詠んだものとみられています。「庭はも」の「はも」は、眼前にないものを思い遣る表現。