大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

住吉の岸に家もが沖に辺に・・・巻第7-1150~1154

訓読 >>>

1150
住吉(すみのえ)の岸に家もが沖(おき)に辺(へ)に寄する白波(しらなみ)見つつ偲(しの)はむ

1151
大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜辺(はまへ)をうちさらし寄せ来る波の行(ゆ)くへ知らずも

1152
楫(かぢ)の音(おと)ぞほのかにすなる海人娘子(あまをとめ)沖つ藻(も)刈(か)りに舟出(ふなで)すらしも [一云 夕されば楫の音すなり]

1153
住吉(すみのえ)の名児(なご)の浜辺(はまへ)に馬立てて玉(たま)拾(ひり)ひしく常(つね)忘らえず

1154
雨は降る仮廬(かりほ)は作るいつの間(ま)に吾児(あご)の潮干(しほひ)に玉は拾(ひり)はむ

 

要旨 >>>

〈1150〉住吉の岸辺に我が家があったらよいのに。そうしたら、沖や岸辺に寄せる白波をいつも眺めていられるのに。

〈1151〉大伴の御津の浜辺を、洗いさらすように打ち寄せてくる波は、いったいどこへ去っていくのだろう。

〈1152〉櫓の音がほのかに聞こえてくる。海人娘子たちが沖の藻を刈るために舟出しているようだ。(夕方になると、櫓を漕ぐ音が聞こえる)

〈1153〉住吉の名児の浜辺に馬をとどめて、玉を拾ったことがずっと忘れられない。

〈1154〉雨は降るし、仮小屋は作らねばならない。いつ暇を見つけて、この吾児の干潟に玉を拾いに出られるのだろう。

 

鑑賞 >>>

 「摂津にて作れる」歌。摂津は、大阪府の北西部と兵庫県の東南部。大和への海の玄関口としての港があり、副都としての難波宮がありました。

 1150の「家」は、定住する住居。「もが」は、願望の終助詞。「沖に辺に」は、沖のほうに、岸のほうに。「偲はむ」は、賞美しよう。1151の「大伴の御津」は、難波近くの港。「大伴」は、大阪市の東部から南方にかけての一帯で、大伴氏の所領であったところからの地名とされます。集中、「難波津」「住吉の御津」などが出てきますが、いずれも同じ場所とされます。「うちさらし」の「うち」は、接頭語。「さらす」は、布などを水洗いしたり日光に当てたりすることで、波が砂浜に寄せるさまを具象的にいったもの。「行くへ知らずも」の「も」は、詠嘆。人麻呂の宇治川での作歌(巻第3-264)にも同じ表現があります。

 1152の「ほのかに」は、かすかに、うっすらと。「すなる」は、目では見ていないが耳で聞いたことを表す助動詞「なり」の連体形。「沖つ藻」は、沖の藻。「舟出すらしも」の「らし」は、根拠に基づく確信的な推量の助動詞。「も」は、詠嘆の終助詞。1153の「名児の浜辺」は、所在未詳ながら、今の大阪市道頓掘の南、今宮、木津、難波の辺りの総名ではないかともいわれますが、摂津国兎原郡住吉郷(神戸市東灘区)の浜とする説もあります。「馬立てて」は、馬をとどめて、馬から降りて。「玉」は、貝や美しい小石。「拾ひしく」の「しく」は、過去の助動詞「き」のク語法で、名詞形。「忘らえず」は、忘れることができない。「え」は、可能の助動詞。

 1154の「仮廬」は、旅先で寝起きする仮小屋。官人の旅であっても、身分の低い者は自身で作ったといわれますが、多くの場合は駅などを利用したはずで、必ずしも歌の表現通りに、実際に仮廬で一夜を過ごしたわけではないといいます。「仮廬」は、旅先での不自由で不安な宿を表す語として、いわゆる歌語として浸透していったのではないかとされます。「いつの間に」は、いつ暇を見つけて。「吾児」は、上の名児と同じ地で、所在未詳。「潮干」は、潮が引いたあとの干潟。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引