大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人・・・巻第20-4437~4438

訓読 >>>

4437
霍公鳥(ほととぎす)なほも鳴かなむ本(もと)つ人かけつつもとな我(あ)を音(ね)し泣くも

4438
ほととぎすここに近くを来(き)鳴きてよ過ぎなむ後(のち)に験(しるし)あらめやも

 

要旨 >>>

〈4437〉ホトトギスよ、もっと鳴いておくれ。亡くなった人を思い出してしきりに泣けてくるけれど。

〈4438〉ホトトギスよ、この近くまで来て鳴いておくれ。今という時が過ぎたあとで鳴いても何の甲斐もないので。

 

鑑賞 >>>

 4437は、題詞に「先の太上天皇(おほきすめらみこと)の御製の霍公鳥の歌」とある歌。先の太上天皇は、元正天皇のこと。当時太上天皇聖武天皇だったので、区別するために「先の」といっているもの。「なほも」は、一層、もっと。「鳴かなむ」の「なむ」は、願望。「本つ人」は、懐かしい人、亡き人の意。「かけつつ」は、及ぼしつつ、関連しつつ。「もとな」は、わけもなく、みやみに。「音し泣く」は、熟語。この時の元正天皇にとって懐かしい人とは、父の草壁皇子、母の元明天皇、弟の文武天皇が考えられますが、誰のことかは分かりません。霍公鳥の哀調を帯びた鳴き声は、人を思わせるものであったようです。元正天皇は『万葉集』に8首(伝も含む)を残していますが、そのほとんどは宴や行事の席での挨拶歌であり、この歌のみが心の内を吐露している歌であるように感じられます。なお、「なほも」を「なほ」を「直」だとして、普通に、平凡にの意に解する説もあります。それだと、しきりに鳴かずに普通に鳴いてくれと訴えているものになります。

 4438は、命婦薩妙観(さつのみょうかん)がお答えした歌。「薩」は氏、「妙観」は尼としての名であり、帰化人の系統と見られています。養老7年(723年)従五位上、翌神亀元年に河上忌寸の姓を賜わり、天平9年(737年)正五位下を授けられた人。「過ぎなむ後に」は、今の時が過ぎた後には。「験」は、効果、甲斐。窪田空穂は、「作意は、その場所、その時は、思い出の哀しみを尽くすのが本意であるという心で詠んでいるものとみえる。それだと故人となられた人の法事を営んでいるというような場合ではなかったかと思われる」と述べています。一方、「過ぎなむ後に」の「過ぐ」を、ホトトギスがよそに行くことを言っているとの見方もあります。

 

 元正天皇は、日本の女帝としては5人目ですが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇です。およそ8年の在位期間を経て、養老8年(724年)2月に退位し、位を譲られた首(おびと)皇子が即位して聖武天皇となりました。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで、譲位後も後見人の立場で聖武天皇を補佐しました。天平15年(743年)に、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発しています。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られています。崩御は、天平20年(748年)、享年68歳でした。

 

 

 

霍公鳥の故事

 霍公鳥(ホトトギス)は、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵する習性で知られる鳥で、『万葉集』には153首も詠まれています(うち大伴家持が65首)。霍公鳥には「杜宇」「蜀魂」「不如帰」などの異名がありますが、これらは中国の故事や伝説にもとづきます。

 ―― 長江流域に蜀(古蜀)という貧しい国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興、やがて帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の治水に長けた男に帝位を譲り、自分は山中に隠棲した。杜宇が亡くなると、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来ると、鋭く鳴いて民に告げた。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは、ひどく嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐くまで鳴いた。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。――

『万葉集』掲載歌の索引