大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを・・・巻第20-4446~4448

訓読 >>>

4446
我(わ)が宿(やど)に咲けるなでしこ賄(まひ)はせむゆめ花散るないや変若(をち)に咲け

4447
賄(まひ)しつつ君が生(お)ほせるなでしこが花のみ問(と)はむ君ならなくに

4448
あぢさゐの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代にをいませ我(わ)が背子(せこ)見つつ偲(しの)はむ

 

要旨 >>>

〈4446〉我が家の庭に咲いているナデシコよ、贈り物をしよう。決して花よ散るな。ますます若返って咲け。

〈4447〉贈り物をしてあなたが大切に育てているナデシコ。その花のおもしろさだけで訪れようとする、そんなあなたとは思っていません。

〈4448〉紫陽花(あじさい)が次々に色を変えながら花を咲かせ続けるように、幾久しく元気でいらして下さい、あなた。紫陽花を見るたびにお偲びしましょう。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝7年(755年)5月、丹比国人(たじひのくにひと)邸で開かれた宴での歌。丹比国人は中納言多治比縣守の子で、橘諸兄の政権下、直属の部下(右大弁)として順調に昇進しましたが、橘奈良麻呂の乱(757年)での策謀が発覚し、伊豆国への流罪となりました。『万葉集』には、長歌1首、短歌3首。
 
 4446は、丹比国人が、宴の主人として左大臣橘諸兄に言寄せて寿いだ歌。「宿」は、家の敷地、庭先。「賄はせむ」の「賄」は、便宜を乞うて贈る物。ここはナデシコを擬人化して呼びかけています。「ゆめ」は、禁止と呼応する副詞。「いや変若に咲け」の「いや」は、ますます。「変若」は、老いたものが若返ること。

 4447は、橘諸兄が応えた歌。「生ほす」は「生ふ」の他動詞で、育て上げる、生長させる。「花のみ訪はむ君ならなくに」の「花」は、心の真実を表す「実」に対して、興味・移り気の意で言っているもの。「ならなくに」は、ではないのに。国人の歌と同じくナデシコの花を材とし、私もあなたの真実を頼んでいることですという意を、大らかな形で言っています。ただし、「花のみ訪はむ」と詠んだのは、そのナデシコが移ろいやすいようにも聞こえて、表現上の難点を指摘されているところです。

 4448は、橘諸兄が紫陽花に寄せて詠んだ歌。紫陽花を詠んだ歌は『万葉集』では珍しく、この歌と合わせて2首しかありません(もう1首は巻第4-773の家持歌)。「八重咲くごとく」は、紫陽花は正確には八重咲きではないため、ここは次々に花の色を変えながらつねに新しく咲き続けるように、の意。「八つ代にを」は、多くの代を重ねて、永久にの意。諸兄が丹比国人の長寿を賀したもので、「いませ我が背子」の「いませ」は「ゐよ」の敬語で、国人と対等な立場に立って詠んでいます。文学者の鈴木武は、「一首、諸兄の歌作の力量をうかがわせる」と評しています。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引