訓読 >>>
1258
黙(もだ)あらじと言(こと)のなぐさに言ふことを聞き知れらくは悪(あ)しくはありけり
1259
佐伯山(さへきやま)卯(う)の花持ちし愛(かな)しきが手をし取りてば花は散るとも
1260
時ならぬ斑(まだら)の衣(ころも)着欲(きほ)しきか島(しま)の榛原(はりはら)時にあらねども
要旨 >>>
〈1258〉黙っていてはまずいだろうと口先だけの気休めに言う言葉を、そうと知りつつ聞いているのは気持ちの悪いものです。
〈1259〉佐伯山で卯の花を手にしていた可愛いあの子の手を握ることができたら、花は散ってもかまわない。
〈1260〉時季外れの斑模様の衣だが、ぜひ着てみたいものだ。島の榛の林はまだ実をつける時期ではないけれども。
鑑賞 >>>
「古歌集に出づ」とあり、「時に臨む」すなわち、その時々に臨んで思いを述べた歌。1258の「黙あらじと」は、黙っていてはまずいだろうと思って。「黙」は、だまっていること。「言のなぐさ」は、口先だけの気休め。「聞き知れらくは」は、聞き知っていることは。「知られく」は「知れり」のク語法で名詞形。「悪しくはありけり」は、よい気持ちのしないことであった。ただし、「悪しく」の原文「少可」の訓はさまざまあり、ツラク、カラクなどと訓む説があります。男の口先だけの気休めの言葉に気づいた時の、女の歌ですが、男の歌と見るものもあります。
1259の「佐伯山」は所在未詳ながら、安芸(広島市佐伯区廿日市市あたり)、あるいは摂津(大阪府池田市)の山かと言われます。「持てる」は、持っている。「愛しきが手」の「が」は所有格の助詞で、愛しい人の手。「散るとも」は、散ろうとも、で、かまわぬの余意を含んでいます。初夏のころ、卯の花をかざす歌垣で女を得ようとする男の歌とされます。
1260の「時ならぬ」は、時季はずれの。第4・5句によると、まだ榛の木の実の時季には早い、の意。「斑の衣」は、濃淡の一様でない衣で、花汁で斑に摺った衣。「着欲しきか」の「か」は詠嘆の助詞で、着たいことだなあ。「島の榛原」は、奈良県明日香村島の庄にあった榛(ハンノキ)の原。「時にあらねども」は、まだ榛の実の熟する秋ではないが。相手の女がまだ婚期に達していないことの隠喩となっており、それでも我がものにしたいと言っている男の歌です。
『万葉集』以前の歌集
■『古歌集』または『古集』
これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。
■『柿本人麻呂歌集』
人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。
■『類聚歌林(るいじゅうかりん)』
山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。
■『笠金村歌集』
おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。
■『高橋虫麻呂歌集』
おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。
■『田辺福麻呂歌集』
おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。