訓読 >>>
4449
なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも
4450
我が背子(せこ)が宿(やど)のなでしこ散らめやもいや初花(はつはな)に咲きは増すとも
4451
うるはしみ我(あ)が思(も)ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽(あ)かぬかも
要旨 >>>
〈4449〉ナデシコの花を手にして見るように、つくづくとお目にかかりたいあなたであることです。
〈4450〉あなたのお庭のナデシコは、散ることなどありましょうか。今咲き出した初花のように、いよいよ輝きを増すことがあっても。
〈4451〉すばらしいお方だと私が思うあなた様は、咲き誇るナデシコの花のようで、見ても見ても見飽きることがありません。
鑑賞 >>>
天平勝宝7年(755年)5月18日、左大臣・橘諸兄が、兵部卿(ひょうぶのきょう)橘奈良麻呂朝臣(たちばなのならまろあそみ)の家で宴を開いたときに詠まれた歌。4449は、治部卿(ぢぶのきやう)船王(ふなのおほきみ)の歌。治部省は、貴族の氏姓や婚姻・相続・祥瑞・喪葬・贈位・や外交をつかさどる役所。船王は舎人親王の子で、大炊王(淳仁天皇)の兄。淳仁天皇の即位と共に親王に列せられ、従三位、太宰帥。中務卿・二品と累進しましたが、淳仁天皇が廃されると、再び王の位に下され、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の謀反に与した罪で隠岐に流されました。『万葉集』には4首。4450・4451は、大伴家持の歌。奈良麻呂は、家持より3歳年下とされますが、位は高く、公的には奈良麻呂が兵部省の卿(長官)であるのに対し、家持は少輔(次席次官)という関係にありました。兵部省は、諸国の兵士・軍旅・兵器などをつかさどる役所。
4449の「なでしこが花取り持ちて」は、ナデシコの花を手に取って。「うつらうつら」は、つくづくと、目にはっきりと。「君」は、奈良麻呂のこと。4450の「我が背子」は、橘奈良麻呂のこと。「散らめやも」はの「や」は反語で、散ろうか、散りはしない。「いや」は、いよいよ、ますます。「初花」は、その年に初めて咲く花。前の船王の歌を受けて、橘家の次期家長の繁栄を予祝して言っています。4451の「うるはしみ」は、気高く立派なお方だと。「我が思ふ君」は、同じく奈良麻呂を指します。「なそふ」は、擬する、なぞらえる。ただ、家持の歌2首の左注には「迫ひて作れる」とあり、宴の後に作ったもののようです。窪田空穂は、「型どおりのもので、気分の足りない歌であるのは、そのためであろう」と言っています。
この時期は、藤原仲麻呂が台頭しつつあり、もう一方の実力者である橘諸兄が老齢になるにつれて、露骨に諸兄の力をそぐ手段を講じつつありました。諸兄を頼みとする家持にとっては、前途に希望を失いつつある日々だったとみられます。この点について、日本古典文学全集『萬葉集 四』には、次のような解説があります。
――(難波から)帰京した家持はまた緊張した政争の場に引き戻された。老獪な仲麻呂の眼を憚って韜晦しているのかもしれない。家持にとっては身内のような大原今城が屈託なげな歌を披露しても、月並みな挨拶で答え(4443)、まして反仲麻呂派の中心的存在の橘奈良麻呂邸の宴ではいっそう慎重にふるまい、歌を詠んでも(4450)、先の今城を讃めた挨拶歌の「いや初花に」を繰り返して、ことさらに平凡に作ったのではないかと思うほどである。――
この年の11月に、橘諸兄が、不敬の発言があったと近侍によって密告される事件が起きました。聖武太上天皇は取り合いませんでしたが、翌年2月に左大臣を辞職して致仕せざる得なくなりました。その翌年に諸兄は亡くなりますが、これが死の遠因になったともいわれます。 また、長い間、諸兄を頼りにし、庇いもしてきた聖武太上天皇も、諸兄が辞職したわずか3か月後に崩じました。仲麻呂にとって憚りのある人物が、相次いで世を去ったのです。