訓読 >>>
1285
春日(はるひ)すら田に立ち疲(つか)れ君は悲しも 若草(わかくさ)の妻なき君が田に立ち疲る
1286
山背(やましろ)の久世(くせ)の社(やしろ)の草な手折(たを)りそ 我(わ)が時と立ち栄(さか)ゆとも草な手折りそ
1287
青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも 石走(いはばし)る近江県(あふみがた)の物語(ものがた)りせむ
要旨 >>>
〈1285〉村人がみんなで遊ぶこんな日にさえ、田に立って働き、疲れ切ったあんたは哀れなことよ。かわいい妻もいないあんたは、一人っきりで立ち働いて疲れきっている。
〈1286〉山背の久世の神社の草は手折ってはならない。たとえあなたが我が世の盛りとばかり栄えていても、神社の草だけは手折ってはならない。
〈1287〉この依網の原で、誰か人に出くわさないものか。そしたら、近江の国の物語りをしように。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から、旋頭歌(5・7・7・5・7・7)3首。1285の「春日」は、豊作を予祝し、村中が農事を休んで春山の歌垣で遊ぶ日。「田に立ち疲れ」は、田で労働して疲れ、の意ですが、「立つ」という語は、歌垣における一種の慣用語でもありましたから、「歌垣に立つ」ことをせずに「田に立つ」という意味が込められています。「若草の」は「妻」の枕詞。若草の柔らかく初々しいさまを「妻」に譬えたもの。「妻なき君し」の「し」は、強意の副助詞。春の歌垣に参加しない(節句働きの?)独身の農夫をからかっている、あるいは同情している歌謡風の歌です。
1286の「久世」は、京都府城陽市久世。「社の草」は、神域にある草で、神に仕える巫女あるいは人妻の譬え。「草な手折りそ」の「な~そ」は、禁止。「手折る」には、自分のものにする、の意があります。「我が時と立ち栄ゆとも」は、我が盛りの時と栄えていようとも。上掲の解釈ではこの主語を、草を手折ろうとする男としましたが、草(女)を主語として、たとい美しく栄えていようとも、と解するものもあります。
1287の「青みづら」は、語義に諸説あるものの、地名「依網」の枕詞で、掛かり方は未詳。「依網」は、諸所にあり未詳。「人も逢はぬかも」は、誰か人が来合わせないものか。「石走る」は「近江」の枕詞ながら。掛かり方未詳。「物語せむ」は、物語をしよう。男が誰かに話したいという物語の内容は不明ですが、詩人の大岡信は、そこがまた魅力だと言っています。窪田空穂も、「怪しいまでに印象が強く魅力的であるために、何事かを連想せずにはいられないような歌である」と言っています。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について