大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

住吉の浜松が根の下延へて・・・巻第20-4457~4459

訓読 >>>

4457
住吉(すみのえ)の浜松が根の下(した)延(は)へて我が見る小野(をの)の草な刈りそね

4458
にほ鳥(どり)の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽(つ)きめやも

4459
葦刈(あしか)りに堀江(ほりえ)漕(こ)ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人(おほみやひと)の皆(みな)聞くまでに

 

要旨 >>>

〈4457〉住吉の浜松の根が地中に長く延びているように、心深くひそかに思っているので、私が見る野の草は刈らずにそのままにしておいて下さい。

〈4458〉息長い鳰鳥(におどり)のような名の息長川の流れが絶えることはあっても、あなたに語りたいと思う、その言葉の尽きることがあるものですか。

〈4459〉葦を刈り取るために堀江を漕ぐ梶の音は、大宮に仕える人たちが皆聞くほどに近い。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「天平勝宝8年(756年)2月24日、太上天皇聖武上皇)と孝謙天皇と光明皇大后が河内の離宮行幸なさり、数泊して28日に難波宮にお遷りになった。3月7日、河内の国の伎人郷(くれひとのさと)の馬国人(うまのくにひと)の家で宴(うたげ)したときの歌3首」とあります。行幸の期間中に、親しい者たちだけで宴を催したようです。4457が兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)の大伴家持、4458が主人の散位寮(さんいりょう)の散位馬史国人(史は姓)、4459が式部少丞(しきぶのしょうじょう)大伴池主の歌。

 「伎人郷」は、『古事記』に「呉の坂」とある、渡来人の呉人が住んでいたとされる地域で、現在の大阪市平野区の喜連(きれ)あたり。「呉」に「伎」の字を当てたのは、呉人が伎楽(中国渡来の、仮面をつけて演じられる無言劇)に巧みだったところからきているとされます。馬史国人の肩書の「散位寮」は、式部省所属の、散位の者(位があって官職のない者)を管掌する役所。馬国人は渡来人の子孫だろうとされます。

 4457の「住吉の浜松が根の」は、住吉海岸の松の木がその根を長く延ばしている意で「下延へて」を導く譬喩式序詞。「下延へて」は、人知れず思って、心ひそかに慕って。「下」には心の奥の意があり、「延ふ」は長く広げるが原義。「小野」の「小」は接頭語。「草な刈りそね」の「な~そね」は、禁止の語法。国人の家から見渡される眺望をほめた歌ですが、「下延ふ」の語は対人的な場合に限って用いられることから、何か寓意があるかもしれないとも言われます。

 4458の「にほ鳥の」の「にほ鳥」はカイツブリのことで、長く水に潜るところから「息長」の枕詞。「息(おき)」は、イキの古形。「息長川」は、滋賀県伊吹山に発し琵琶湖に流れる天野川。男女間の恋の歌であり、脚注に「古新未だ詳らかならず」とあるところから、元来恋の歌であったのを、国人が家持らへの挨拶の歌に借用したものと見られています。そうでないと「息長川」という名が不自然であり、国人の創作とは思えないことからの注記だろうとされます。挨拶の歌などに古歌を流用することによってその時の間に合わせることは、そう珍しいことではなかったと言います。

 4459の「堀江漕ぐなる」の「堀江」は、難波の地の掘割。現在の大川とされます。「漕ぐなる」の「なる」は、伝聞推定。「大宮人」は、堀江に近い難波宮に従駕している官人。「皆聞くまでに」は、下に「近い」の意が略されている形。奈良京の官人たちにとって、海も堀江も珍しい上に、庶民の葦刈船の楫の音が近くに聞こえるということが殊更に珍しかったとみえます。なお左注に、この歌はいつ誰の作ったともわからぬ歌で、先日よそで、大原今城が誦した歌である旨の記載があり、池主がこの場にふさわしい歌として誦したもののようです。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)