大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

今作る斑の衣は面影に・・・巻第7-1296~1298

訓読 >>>

1296
今作る斑(まだら)の衣(ころも)は面影(おもかげ)に我(わ)れに思ほゆ未(いま)だ着ねども

1297
紅(くれなゐ)に衣(ころも)染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき

1298
かにかくに人は言ふとも織(お)り継(つ)がむ我(わ)が機物(はたもの)の白き麻衣(あさごろも)

 

要旨 >>>

〈1296〉今作っている斑模様の美しい着物は、その美しい仕上がりが、私の目の前にちらついて見えるほどに思われる。まだ着ることはできないけれど。

〈1297〉紅に衣を染めようと思うのですが、それを着て匂い立つように照り映えたら、世間の人に知られてしまうでしょうね。

〈1298〉あれこれと人は言い騒ぐでしょうけど、私は織り続けます。私の機(はた)にかけて織っているこの白麻の着物を。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「衣(ころも)に寄する」歌3首。1296の「斑の衣」は、花で摺った濃淡のある斑染めの衣。当時の晴れ着だったようで、ここでは懸想をしている年ごろ前の少女に譬えています。「面影に我れに思ほゆ」は、私には面影として目の前にちらつくほどに思われる。「未だ着ねども」は、まだ共寝をしていないが、の意の譬喩。年ごろになりかかっている美しい娘との結婚を期待している男の歌とされます。

 1297は、「紅」は、ベニバナの花を染料として染めた色で、華やかな派手な色。「染めまく欲しけども」の「染めまく」は「染めむ」のク語法で名詞形。染めたいと思うけれど。「着てにほはばか」の「にほふ」は、色が美しく照り映える意。「か」は、疑問の係助詞。思う人と共寝をしてその喜びが素振りに出たら、の意を含んでいます。「人の」は、世間の人が。思う男と結ばれたいと思いながらも、世間の目を気にしている女の気持ちを歌った歌とされますが、「衣」を女の比喩と見れば、男の歌となります。

 1298の「かにかくに」は、あれこれと、とやかく。「人は言ふとも」は、周囲の人が非難して言おうとも。「織り継がむ」は、関係を続けようという譬え、「白き麻衣」は男の譬えで、機を織り続けると言って、ずっと思い続けようとする女の気持ちを歌っています。「白き麻衣」と言っているのは、素朴で純粋な男を意味しているのでしょうか。結句は字余りですが、句中に単独母音アを含んで準不足音句になるので7音節となります。

 

 

万葉集』の字余り句

 和歌(短歌)は、5・7・5・7・7の31文字を定型としますが、5文字が6文字に、7文字が8文字に超過する句がある場合は「字余り」と呼ばれます。近代以降の和歌にも字余りを詠みこむ例がありますが、それらの字余りに特段の法則があるわけではありません。しかし、『万葉集』など古代の字余りには一定の法則が認められ、それを発見したのは、江戸時代後期の国学者本居宣長です。すなわち、句中に「あ・い・う・え・お」のいずれかの単独母音を含むと字余りをきたすというものです。上の歌(1298)でいえば、結句の途中に母音アを含む8文字の字余りになっています。この場合、アが準不足音句になるので、7音節と見るのです。

 もっとも、句中に母音音句を含めば、すべてが字余りになるかというとそうではなく、非字余りの句も存在します。また、従来、母音音句を含まず字余りで訓まれてきたものを、諸氏の本文批判や訓法によって5・7文字に改訓されてきた中にあって、母音音句を含まずに字余りと認められるものも僅かながら存在しています。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引