訓読 >>>
1311
橡(つるはみ)の衣(ころも)は人皆(ひとみな)事なしと言ひし時より着欲(きほ)しく思ほゆ
1312
おほろかに我(わ)れし思はば下(した)に着てなれにし衣(きぬ)を取りて着めやも
1313
紅(くれなゐ)の深染(ふかそ)めの衣(きぬ)下に着て上に取り着ば言(こと)なさむかも
要旨 >>>
〈1311〉橡で染めた着物は、皆が着やすくてよいと言うのを聞いてから、着てみたいと思うようになったよ。
〈1312〉いい加減な気持で私が思っているのだったら、下に着た古びた着物をもう一度取り出して着たりするものか。
〈1313〉濃い紅色に染め上げた着物を下に隠すように着たあとで、改めてそれを外着のしたら、たちまち人の評判になるだろうか。
鑑賞 >>>
「衣(きぬ)に寄する」歌。1311の「橡の衣」の「橡」はクヌギの木で、どんぐりを煮た汁で衣を染めた橡染めは、庶民の着物に使われました。ここは、身分の賤しい女の喩え。「事なし」は、面倒がないこと、心配事がないこと。「着欲し」は、妻にしたい、共寝をしたい、の意を寓しています。身分の低い女を妻にしたら物思いもなくなると聞いた男が心を動かす、あるいは身分の高い女性を妻にした男が、気苦労の多さにぼやいてる歌ともいいます。「橡の衣」は、むしろ普通の妻・堅気の妻を譬えたものかもしれません。
1312の「おほろかに」は、おろそかに、いい加減に。「我れし思はば」の「し」は、強意の副助詞。「下に着てなれにし衣」は、下着として着慣れて垢じみた衣で、人に知られないようにして長年なじんできた内縁の妻の譬え。「取りて着るめやも」の「や」は反語で、下着を取り出して上着として着ようか、そんなことをするはずがない、の意。「取りて着は、その妻を表立って家に迎える、すなわち正式の妻にする意の譬喩。女に対し、我が情愛が並々ならぬことを示している男の歌です。
1313の「紅の深染めの衣」の「紅」は、代表的に美しい染料、「深染めの衣」は、それを色濃く染めた着物。深く馴染んだ女、世間の目を引く女の譬え。「下に着て上に取り着ば」は、下着に着ていて上着として着たならば。「下に」は、忍んで、「上に」は、表立って、公にして、の意の譬え。「言なさむかも」の「言なす」は、言い騒ぐ、噂を立てる。「かも」は、疑問。男が懸念している歌ですが、窪田空穂は、「この懸念は軽いもので、むしろ興味に近いものであることは、『紅の深染め』という譬喩でわかる。自然で、明るさと美しさのある歌である」と言っています。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について