大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆ・・・巻第20-4465~4467

訓読 >>>

4465
ひさかたの 天(あま)の門(と)開き 高千穂(たかちほ)の 岳(たけ)に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代(みよ)より はじ弓を 手握(たにぎ)り持たし 真鹿児矢(まかごや)を 手挟(たばさ)み添(そ)へて 大久米(おほくめ)の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負(お)ほせ 山川(やまかは)を 岩根(いはね)さくみて 踏み通り 国(くに)求(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言(こと)向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃(は)き清め 仕(つか)へ奉(まつ)りて 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原(かしはら)の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱(みやばしら) 太(ふと)知り立てて 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 天(あま)の日継(ひつぎ)と 継(つ)ぎて来る 君の御代(みよ)御代(みよ) 隠(かく)さはぬ 明(あか)き心を 皇辺(すめらへ)に 極(きは)め尽くして 仕(つか)へ来る 祖(おや)の官(つかさ)と 言立(ことだ)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り次(つぎ)てて 聞く人の 鑑(かがみ)にせむを あたらしき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言(むなこと)も 祖(おや)の名(な)絶(た)つな 大伴(おおとも)の 氏(うぢ)と名に負(お)へる ますらをの伴(とも)

4466
磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴(とも)の緒(を)心(こころ)つとめよ

4467
剣太刀(つるぎたち)いよよ磨(と)ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来(き)にしその名ぞ

 

要旨 >>>

〈4465〉高天原の門を押し開き、高千穂の岳に天降られた皇祖の神の御代から、はじ木の弓を手にお持ちになり、真鹿子矢を手挟み添え、大久米の勇士を先頭に立てて靫を背に負わせ、山や川の岩々を押し分けて踏み通り、居つくべき国を探し求めては、荒ぶる神々を鎮め、従わない人々をも和らげられ、国土を掃き清めてお仕え申し上げて、蜻蛉島なる大和の国の橿原の畝傍の山に宮柱を太々と構えて天下を治められた天皇、その皇位の継承者として継いでこられた天皇の御代御代に、曇りのない忠誠の心を極め尽くしてきた祖先の官であると、特に言葉にして授けて下さった子孫の、いよいよ代々に伝える家柄であることを、見る人が語り継ぎ、聞く人が手本にで耳にする人々の鏡にしようものを、貶めてはもったいない清らかな名である。おろそかに考えて、かりそめにも祖先の名を絶やしてはならない。大伴という氏と名を背負っている一族の者たちよ。

〈4466〉大和の国に知れ渡る名を負っている一族の者たちよ。心を尽くして務めを果たせ。

〈4467〉剣太刀を磨ぐように、心をいよいよ磨いていくべきだ。いにしえの昔から、清らかに保ってきた由緒ある名なのだから。

 

鑑賞 >>>

 聖武太上天皇崩御後の天平勝宝8年(756年)5月10日、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)の讒言によって出雲守(いずものかみ)大伴古慈斐宿祢(おおとものこしびのすくね)が、朝廷を誹謗したかどで解任される事件が起きました。大伴古慈斐宿祢は、当時の大伴氏の年長者で、家持の曾祖父である長徳の弟・吹負(ふけい)の孫にあたります。三船は藤原仲麻呂に強要されて讒言したとされ、新興勢力の藤原氏が、旧勢力の大伴氏などの追い落としを図った策略でした。

 そうした藤原一族の勢力が強まる不穏な空気のなか、大伴家持は、皇室の股肱の武の家たる大伴宗家のあるじとして、この「族(うがら)を喩(さと)す歌」を作り、一族の軽挙を戒めました。しかしながら、武の家であることを誇示するのに、武の力ではなく歌の力をもってしなければならないところに、もはや勢いの衰えは隠せなくなっています。大伴氏が隆盛を極めたのは、この時代から約200年前の西暦500年代に大連(おおむらじ)として朝廷を取り仕切った頃であり、その後は物部氏蘇我氏の後塵を拝し、大化改新以降は藤原氏の台頭で、ますます影が薄くなってしまいます。この歌は、そうした悲痛の響きがあり、家持の最後の長反歌となっています。

 4465の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天の門」は、高天原の門、天の岩戸。「高千穂の岳」は、天孫降臨伝説の地。鹿児島県の霧島山または宮崎県高千穂町。「皇祖の 神」は、天照大神のこと。「はじ弓」は、ハジの木で作った弓。「真鹿児矢」は、大きな獣を射る弓。「大久米のますら健男」は、久米部(久米氏に属した武人)の勇士。「靫」は、矢を入れて背負う武具。「山川」は、山と川。「さくみて」は、踏み破って。「国求ぎ」の「求ぎ」は、探し求めることで、大和進出の彷徨を指しています。「ちはやぶる」は、暴威をふるうの意で、「神」の枕詞。「まつろはぬ」は、従わない。「蜻蛉島」は「大和」の枕詞。「橿原の畝傍の宮」は、橿原市畝傍山東南の地に営まれたと伝える神武天皇の皇居。「宮柱太知り立てて」は、宮殿の柱を太々と地面に突き立てて。「皇祖の 天の日継」の「皇祖」は神武天皇を指し、「天の日継」は天照大神の直径子孫である天皇の位。「明き心」は、公明で曇りのない心、忠誠心。「皇辺」は、天皇のお側。「祖の官と」は、先祖代々の職務であるぞと。「言立てて」は、きっぱりと言い立てて。「あたらしき」は、惜しい、もったいない。「おぼろかに」は、いい加減に。「空言も」は、空言にも、の意。

 4466の「磯城島の」は「大和」の枕詞。「名に負ふ」は、名として持つ、ここhh、人に知られた、の意。「伴の緒」は、古代の豪族たちが私有民を率いて朝廷に奉仕した集団。4467の「剣太刀」は「磨ぐ」の枕詞。「古ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。

 

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)