大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

心には思ひわたれどよしをなみ・・・巻第4-714~717

訓読 >>>

714
心には思ひわたれどよしをなみ外(よそ)のみにして嘆きぞ我(わ)がする

715
千鳥(ちどり)鳴く佐保(さほ)の川門(かはと)の清き瀬を馬うち渡(わた)し何時(いつ)か通はむ

716
夜昼(よるひる)といふ別(わ)き知らず我(あ)が恋ふる心はけだし夢(いめ)に見えきや

717
つれもなくあるらむ人を片思(かたも)ひに我(わ)れは思へば苦しくもあるか

 

要旨 >>>

〈714〉心の中では貴女をずっと思い続けているのに、逢う術がないのでいつも離れた場所で、私は嘆くばかりです。

〈715〉いつも千鳥が鳴く佐保川、その川門の清らかな浅瀬を馬で渡り、貴女のもとへ通うことができるのは何時のことでしょう。

〈716〉明けても暮れても貴女を思う私の気持ちは、もしや、貴女の夢に見えましたか。

〈717〉冷たい人を片思いに思っている私は、何ともわびしくてなりません。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持が娘子に贈った歌7首のうちの4首。714の「よしをなみ」は、手段がないので。「外のみにして」は、離れた場所ばかりにいて。「嘆きぞ我がする」は、我は嘆きをしていることであるよ。715の「千鳥鳴く」は、佐保川の慣用的修飾語。「川門」は、川幅が狭くなった所。「馬うち渡し」は、馬に鞭打って渡らせ。「何時か」は「何時しか」とともに、早く~したい、早く~して欲しいという願望を表す場合にのみ用います。

 716の「別き」は、区別。「けだし」は、もしかして。「夢に見えきや」は、夢に現れただろうか。万葉の人々は、夢に人を見るのは相手がこちらを思うせいだと考え、また、こちらが人を思うと、その人の夢に自分が見えるものと考えました。717の「つれもなく」は、無関心に、思いやりがなく。「苦しくもあるか」の「か」は、詠嘆。

 歌を贈った相手の「娘子」がいかなる人だったか全く分からず、しかも娘子が答えた歌がないことから、この恋は報われなかったものと見えます。

 

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)