訓読 >>>
864
後(おく)れ居(ゐ)て長恋(ながこひ)せずは御園生(みそのふ)の梅の花にもならましものを
865
君を待つ松浦(まつら)の浦の娘子(をとめ)らは常世(とこよ)の国の天少女(あまをとめ)かも
866
はろはろに思ほゆるかも白雲(しらくも)の千重(ちへ)に隔(へだ)てる筑紫(つくし)の国は
867
君が行き日(け)長くなりぬ奈良道(ならぢ)なる山斎(しま)の木立も神(かむ)さびにけり
要旨 >>>
〈864〉宴に参加もできないで長らく恋い慕っているくらいなら、いっそあなた様のお庭の梅の花になってしまおうものを。
〈865〉あなた様をお待ちしている松浦の浦の娘子たちは、常世の国の仙女なのでしょうか。
〈866〉遙か遠くから思いやられます。白雲が幾重にも隔てている筑紫の国は。
〈867〉あなた様が筑紫に行かれて長くなり、奈良道にあるお邸の木立はものすごく茂っております。
鑑賞 >>>
作者の吉田宣(きったのよろし)は、百済からの渡来人で、都に住む医術家。もとは僧で恵俊と称していましたが、文武天皇4年(700)に勅命によって還俗、吉の姓、宜の名を賜った人です。ここの歌は、大宰府の大伴旅人から贈られた梅花宴の歌32首と松浦川に遊ぶ歌(815~863)などに対する返簡として旅人に贈った歌で、次のような内容の宣の手紙が添えられています。
―― 宣が申し上げます。謹んで四月六日付の御手紙を拝受致しました。跪いて封函を開き、拝んで芳章を拝読致しました。心が朗々とするのは、泰初(たいしょ)が月を懐に入れた気持ちそのままであり、卑しい思いが消えるのは、楽広(がくこう)が天を披くが如くであります。
さて貴殿におかれては、「辺境の地に任務を果たすことになり、在りし昔を懐かしんで心を傷め、年月が過ぎ去るのは速く、若き日を偲んでは涙を落とす」と仰せになっていますが、そのような時にあっても、達人は物事の移ろいに安んじ、君子は独りいて煩悶がないといいます。伏してお願い申し上げることは、朝には、雉まで懐いたという魯恭(ろきょう)の徳化を敷き、暮には、亀を放って出世したという孔愉(こうゆ)の仁術を施し、かつ、漢の名臣、張敞(ちょうしょう)や趙広漢(ちょうこうかん)のような令名を百代ののちに凌ぎ、仙人の赤松子(せきしょうし)や王子喬(おうしきょう)に千年の後に学ばれんことを。なお、書簡で頂いた、梅苑の芳しい席で群がる英才が歌を詠まれ、松浦の美しい淵で仙女と贈答なされたその作は、孔子が杏壇(きょうだん)で門弟たちに各々述べさせた志の歌にも劣らず、また、曹植(そうしょく)が洛川(らくせん)で神女に逢った篇かと思われるほどです。ただ耽読し吟誦して、感謝し喜んでおります。この宜が、あなた様を慕う真心は、犬馬が主人を思う誠を越え、御徳を仰ぐ心は、冬葵(ふゆあおい)がいつも日の光を追うのと同じです。しかしながら、青海が地を分かち、白雲は幾重にも天を隔てています。いたずらに恋い慕う心を積もらせるばかりで、いかにしてご辛苦をお慰めしたらよいものか。時あたかも初秋七月七日の節句に当たります。伏して願いますのは、数々の天佑があなた様に日に新たにあらんことを。ここに、相撲の部領使(ことりづかい)に託して、謹んでこの紙片を差し上げ ます。――(語釈は割愛します。)
864は「諸人の梅花の歌に和へ奉る一首」。「後れ居て」は、後に残っていて、宴に参加できないで。「長恋せずは」は、長く恋い慕ってなどいないで。「ずは」は、下の「ましものを」と呼応して、~ズシテ、ムシロ後件の方が望ましいという意を表します。後件にはたいてい実現不可能な願望が来ます。「御園生」は、大宰府の旅人邸の庭。「ならましものを」の「まし」は、反実仮想。865は「松浦の仙媛(せんゑん)の歌に和ふる一首」。「君を待つ」は「松浦」の枕詞であると共に実意のあるもの。「常世の国」は、海の彼方にあるとされていた不老不死の仙郷。「天少女」は、天上を飛ぶ仙女。原文「阿麻越等売」で、天上からやって来た「海人(あま)娘子」と解する説もあります。
866・867は「君を思ひていまだ尽きず、重ねて題(しる)す二首」。866の「はろはろに」は、はるばる。867の「君が行き」は、旅人の太宰帥赴任のこと。「日(け)」は、日(ひ)の複数名詞。「奈良道」は、旅人の邸のある奈良の佐保へ行く道。「なる」は、~にある。「山斎」は、池や築山のある庭園。「神さびにけり」は、すごく茂った。この歌について窪田空穂は、「旅人の帰京を待ち望む心を、留守宅の庭園の木立の神さびたのに寄せて、それとなく言っているものである。見て思ったままを言っているにすぎない、何のあやもない歌であるが、上の三首に較べると、別手に出たかと思われるまでの魅力のあるものである。老成した深い心の直接な現われだからである」と述べています。奈良の旅人邸と宣の住む田村とは、そう遠くない距離にありました。