訓読 >>>
印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思ふ時はさねなし
要旨 >>>
印南野にあるあから柏の葉が赤いのは、定まった時がありますが、大君を私がお慕い申す定まった時というのはございませぬ。
鑑賞 >>>
題詞に「(天平勝宝6年1月)七日に、天皇・太上天皇・皇大后が東の常宮(つねのみや)の南大殿に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌」とある歌。「天皇」は第46代の女帝孝謙天皇、「太上天皇」は聖武太上天皇、「皇大后」は光明皇大后。「東の常の宮」は、東院と称せられた宮で、平城宮の東部にある平常の御殿。「肆宴したまふ歌」は、大御酒を召させられる日の歌で、「歌」は、播磨国守の安宿王(あすかべのおほきみ)が奏したもの。安宿王は長屋王の子で、母は藤原不比等の娘。聖武とはまたいとこ、光明皇后には甥、孝謙にはいとこ、という血縁にあり、天平元年(729年)に父が自尽した時、その関係で同母弟の黄文王・山背王らと共に死を免れた人。同9年に従五位下、天平勝宝3年(751年)正四位下に進み、同5年播磨守となりました。『万葉集』には2首。
「印南野」は、播磨国印南郡にある野。今の兵庫県高砂市、加古川市から明石市へかけての一帯の地。播磨国の国府は姫路にあり、国守だった安宿王は京への往復にこの地を通過していたのでしょう。「赤ら柏」は、葉の赤い柏の称で、その葉が乾燥して赤褐色になるのを言っています。「時はあれど」は、定まった時があるが。「君」は、孝謙天皇を指しています。「さねなし」は、時の区別がないこと。止むことがない意。肆宴には、古式に従って、食器としての柏の葉が用いられ、播磨国は貢物として干柏を献ずることが、『大膳式』に載っており、この時の肆宴にも干柏が用いられていたとも考えられます。
第46代の女帝・孝謙天皇は、この時37歳。聖武天皇の長女で、母は光明皇后。天平勝宝元年7月に聖武天皇から譲位されて即位しましたが、母の実家である藤原氏の擁立する配偶者のいない女帝は、必ずしも諸家万民の歓迎するところではなかったといいます。聖武天皇はもともと頑健の質でなかった上に、悪疫、地震、旱魃などの災害に遭って精神的な打撃を受け、更に元正太上天皇の崩御によって、藤原勢力の増大、天皇の信任厚い左大臣橘諸兄の衰退などのことがあって、遂に「万機密く多くして、御身敢へ賜はず」との理由で譲位したのです。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について