大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

河口の野辺に廬りて夜の経れば・・・巻第6-1029

訓読 >>>

河口の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜の経(ふ)れば妹が手本(たもと)し思ほゆるかも

 

要旨 >>>

河口の野のほとりに仮の宿りをとっていると、夜が更けるにつれて妻の手枕が思い出される。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。天平12年(740年)8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。家持は、内舎人(うねどり:天皇近侍の文官)としてこの行幸に従っていました。

 この歌は、河口の行宮(かりみや)で詠んだ歌。河口の行宮は、三重県津市白山町川口の地に営んだ仮宮のことで、聖武天皇はここに10日間留まりました。「廬りて」は、仮の宿をとって。「廬」を名詞にしてイホリシテと訓むものもあります。「手本し」の「手本」は、肘から肩までの部分、「し」は、強意の副助詞。行幸の背後にある事件は当時としては重大でしたが、年若い家持は、10月の夜々の侘しさを実感し、ひたすら素直な気持ちで詠んでいます。

 

 

藤原広嗣の乱

 天平12年(740年)に、九州地方で起きた反乱。大養徳(大和)守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷されたことを不満に思った藤原広嗣(宇合の子)は、対立していた僧玄昉(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)2人を除くことを要求する上表文を提出した。しかし、広嗣は朝廷からの返事を待つことなく、8月末に管轄下の兵を動員して東上を開始。急報を受けた聖武天皇は、全国的に動員をかけ、大野東人(おおののあずまひと)を大将軍とする兵を西下させた。両軍は北九州各地で激戦、敗れた広嗣は五島列島の値嘉島(ちかのしま)からさらに西方へ脱出しようとしたが逮捕され、11月初め処刑された。この乱は聖武天皇恭仁京紫香楽宮への遷都の原因となり、また折からの天然痘流行とあいまって、国分寺東大寺造営の直接の契機となった。

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)