訓読 >>>
ひさかたの雨は降りしけ思ふ子が屋戸(やど)に今夜(こよひ)は明かして行かむ
要旨 >>>
雨よ、降り続いてくれ。そしたら、慕っている人の家に、今夜は明かして帰ろう。
鑑賞 >>>
安積皇子(あさかのみこ)が左少弁(さしょうべん)藤原八束(ふじわらのやつか)の家で宴会をした日に、内舎人(うねどり)大伴宿祢家持の作った歌。安積皇子は聖武天皇の皇子で、天平16年2月、17歳の若さで亡くなりました。この歌が詠まれたのはその前年で、家持は、天平10年から16年まで、天皇の近くに仕える内舎人を務めていました。藤原八束は、藤原北家の祖・藤原房前の三男で、この時は28歳、家持は26歳。
「ひさかたの」は「天」の枕詞で、ここは「雨」に転じたもの。「雨は降りしけ」の「しけ」は、重なり続く意の「しく」の命令形。「思ふ子」の「子」は、広く男女に用いる愛称。ここでは主人の八束を指しているとされ、あるいは接待に出た侍女ではないかとする見方もあります。主客とも若い人たちであり、改まった形の宴ではなかったことから、折からの雨をふまえての、しゃれた座興の歌との捉え方もありますが、目上の八束に対して「思ふ子」というのはあまりに非礼です。そこで、家持が安積皇子に代わって主人・八束への謝意を表したものだろうと説明されます。
安積皇子は、この時、聖武天皇のただ一人の生存する皇子で、その母の広刀自は、左大臣橘諸兄の母族の出身ということで、称徳天皇即位後の皇太子として最も有力な存在でした。藤原八束も、大伴、佐伯、多治比氏らの旧族とともに、藤原仲麻呂との対立、母を通じての諸兄との血縁関係(八束の母は諸兄の妹)から、この年若い皇子に大きな期待を寄せていたことが推定されています。