大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

飛騨人の真木流すといふ丹生の川・・・巻第7-1173~1174

訓読 >>>

1173
飛騨人(ひだひと)の真木(まき)流すといふ丹生(にふ)の川(かは)言(こと)は通へど舟ぞ通はぬ

1174
霰(あられ)降り鹿島(かしま)の崎(さき)を波(なみ)高み過ぎてや行かむ恋しきものを

 

要旨 >>>

〈1173〉飛騨の人が立派な材木を流すという丹生の川。両岸から声を掛け合うことはできるが、舟は往来できない。

〈1174〉鹿島の崎を、波が高いからといって見過ごして行くことはできない、どうしようもなく心惹かれているのに。

 

鑑賞 >>>

 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1173の「飛騨人」は、飛騨国岐阜県の北部)の人。古代、その地の人は庸調を免除され、飛騨の工匠(たくみ)と呼ばれて、建築や工作の技術者、木樵(きこり)として知られていました。「真木」は、ヒノキなどの良質の木材となる木。「丹生の川」は、所在未詳。「言は通へど」は、川幅が狭いので両岸から言葉を掛け合うことができること。「舟ぞ通はぬ」は、下流からここまで上ってくることができない、あるいは急流な上に上流からは木材が流れてくるので渡し舟が通わない意。覊旅の歌というより、丹生地方で謡われていた民謡のようであり、旅人が興味を持って採録したものかもしれません。

 1174の「霰降り」は、その降る音がかしましいの意で「鹿島」に掛かる枕詞。「鹿島の崎」は、常陸国茨城県鹿島郡の南端にあり、国土開発の建御雷神(たけみかづちのかみ)を祀る鹿島神宮のある地。鹿島神宮常陸一の宮として古来きこえた社であり、こんにちも広大な自然林の中に鬱蒼とした神域を保っています。「波高み」は、波が高いので。「過ぎてや行かむ」の「や」は、疑問。寄らずに通り過ぎて行くのだろうかと、遺憾に思う心。「恋しきものを」は、恋しいところであるのに。公務で東国に下り、鹿島の海を船で渡る時の歌で、上陸して鹿島の神に奉斎しようとしていたのに、荒い波のためにできないと言って嘆いています。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

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