訓読 >>>
957
いざ子ども香椎(かしひ)の潟に白妙(しろたへ)の袖(そで)さへぬれて朝菜(あさな)摘みてむ
958
時つ風吹くべくなりぬ香椎潟(かしひかた)潮干(しほひ)の浦に玉藻(たまも)刈りてな
959
行き帰り常に我(わ)が見し香椎潟(かしひがた)明日(あす)ゆ後(のち)には見むよしもなし
要旨 >>>
〈957〉さあみんな、香椎の干潟で袖まで濡らして、朝の海藻を摘もう。
〈958〉満潮の風が吹きそうになっている香椎潟の潮干の浦に、早く玉藻を刈りたい。
〈959〉行きと帰りに私がいつも見ていた香椎潟は、明日から後は見ることができなくなってしまうのだ。
鑑賞 >>>
題詞に、冬11月、大宰府の官人たちが香椎の宮に参拝し、終わって大宰府に帰るときに、馬を香椎の浦にとめ、思いを述べて作った歌とあります。冬11月は、神亀5年(728年)11月で、太陽暦の12月6日から翌年1月3日までにあたります。香椎の宮は、神功皇后を中座とし左右に八幡神・住吉神をを祭祀する神社、香椎の浦は現在の福岡市香椎浜。957は、帥(長官)の大伴旅人が、部下の官人らに呼びかけた歌。958・959は、それに官人らが答えた歌。
957の「いざ」は、誘う言葉で、「子ども」は、部下の者を親しんで呼んだ語。「白妙の」は「袖」の枕詞。枕詞ではなく、参拝の時の服色と見る説もあります。「袖さへ」は、袖までも。「朝菜」は、ここでは食用の海藻。海人にとってはごく当たり前の朝菜摘みは、官人にとっては珍しく風流だったことが、行幸の供奉の歌に多くうたわれているので察せられます。
958は、大弐(だいに:次官)の小野老朝臣(おののおゆあそみ)の歌。ただし、天平2年(730年)の梅花宴(巻第5-816)に少弐とあるので、ここの大弐は誤りとされます。「時つ風」は、満潮になる時に吹く海陸風。「玉藻」は藻の美称で、前の歌の「朝菜」と同じ。「刈りてな」の「な」は、文末にあって動詞・助動詞の未然形に接し、意志や願望の意を表します。
959は、豊前守(ぶぜんのかみ)の宇努首男人(うののおびとおひと)の歌。「字努」は氏、「首」は姓、「男人」は名。『姓氏録』大和国諸蕃に、百済君国の男、弥奈曾富弥(みなそほみ)の後とあり、。また『政治要略』、養老4年、大隅、日向の隼人が乱を起こした時、豊前守宇野首男人を将軍として征討させ、大勝したことが載っています。養老4年からこの神亀5年までは9年間であり、国守の任期としては長期間に過ぎ、何か特殊な事情があったのかもしれません。「行き帰り」は、その任所である豐前の国庁と大宰府との間の往復。豊前守としての任が解けて京へ上る途中に同道し、香椎潟の見えるところに一日を過ごし、その風光に別れを惜しんでの嘆きの歌とされます。