大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

奥山の岩に苔生し恐くも・・・巻第6-962

訓読 >>>

奥山の岩に苔(こけ)生(む)し恐(かしこ)くも問ひたまふかも思ひあへなくに

 

要旨 >>>

奥山の岩が苔生して神々しいように、恐れ多くもこの私めにお求めですが、気の利いた歌などとうてい思い及びません。

 

鑑賞 >>>

 葛井連広成(ふじいむらじひろなり)の歌。題詞に「天平2年(730年)、勅命で擢駿馬使(てきしゅんめし)の大伴道足宿祢(おおとものみちたりすくね)を派遣したときの歌」という旨の記載があり、左注には「勅使の大伴道足宿祢を大宰帥の家で饗応した。集まった人々が葛井連広成に勧めて、歌を作れと言った。即座にその声に応じてこの歌をうたった」との説明があります。広成が、即座に歌を作れと人々から言われて、その出来ないことを断わった歌です。

 「奥山の岩に苔生し」は、奥山の岩に苔が生えて、で、その景の神々しさ、恐ろしさから「恐く」と続け、その意を転じて第3句の「恐くも」を導く序詞としたもの。「問ひたまふかも」の「問ふ」は求める意、「かも」は詠嘆。「思ひ」は、歌を考える意。「あへなくに」の「あへ」は、能う意。「なくに」の「なく」は、打消「ず」の未然形「な」に「く」を添えて名詞形にしたもの。「に」は詠嘆。この歌は、巻第7にある「奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心をいかにかもせむ」(1334)とある古歌を踏んでおり、歌が詠めないことを歌で返した当意即妙さは、なまなかの歌よりもかえって喝采を浴びたと思われます。
 
 饗応を受けた「擢駿馬使」は、駿馬を選ぶために諸国に派遣された使者。その大伴道足は正四位下で、大伴一族のなかでは旅人に次いで高位の人。歌を詠んだ葛井広成(生没年不詳)は、渡来人系で、はじめ白猪史(しらいのふびと)を称し、養老3年(719年)に遣新羅使に任ぜられましたが、これを辞しています。翌年、葛井連(ふじいのむらじ)の姓を賜り、以後歴官して正五位上中務少輔に至りました。漢学の造詣が深く、『万葉集』に短歌3首のほか、『懐風藻』に詩2首を残しています。

 

 

 

日本語の確立

 文字のない社会だった日本が漢字に触れ、自分たちの言語にこれを利用するまでには4~5世紀にわたる期間を要しました。奈良時代にまとめられた『古事記』や『万葉集』は、漢字を並べて書かれてはいますが、漢文ではないので、中国人が読んでも意味が分かるものではありませんでした(『古事記』の序文だけは漢文)。

 たとえば『万葉集』で恋(こい)という語は、「古比」「古飛」「故非」「孤悲」などと記され、また衣(ころも)という語は、「乙呂母」「去呂毛」「許呂母」などと表記されました。これらは、万葉仮名とよばれる音仮名の例です。

 当時の日本人は、日本語をあらわすに際し、中国語からは音に応じた文字だけを借りました。やがて平安時代になると、万葉仮名のくずし字が発達して、そこから平仮名が生まれました。こうして日本人は、漢字の音を借りて日本語を表記する方法を確立したのです。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引