大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

須臾も行きて見てしか神名火の・・・巻第6-969~970

訓読 >>>

969
須臾(しましく)も行きて見てしか神名火(かむなび)の淵は浅(あ)せにて瀬にかなるらむ

970
指進(さしずみ)の栗栖(くるす)の小野の萩(はぎ)の花散らむ時にし行きて手向(たむ)けむ

 

要旨 >>>

〈969〉ほんのちょっとの間でも訪ねてみたいものだ。神名火の川の淵は、浅くなってしまって、今では瀬になっているのではなかろうか。

〈970〉栗栖の小野に咲く萩の花、その花が散る頃には、きっと出かけていって、神社にお供えをしよう。

 

鑑賞 >>>

 天平3年(731年)に「大納言大伴卿の奈良の家に在りて故郷を思(しの)へる」歌2首。大宰府から帰京して間もなく、旅人は病に臥せってしまいます。その孤愁の病床にあって、旅人の胸に去来したのは、自分の本当の故郷であったようです。大伴氏の荘園として、竹田庄(橿原市東竹田町)や跡見庄(桜井市外山)が知られており、一族の本拠もこの辺りだったと考えられ、従って旅人は平城京遷都までの30年間をこの地で過ごしてきたことになります。念願の都に帰っても、妻のいない家に失望し、心がまっすぐ大和へと向かうのは、何よりもそこが最後に身を預けるべき安住の地だとの思いがあったからでしょう。

 969の「須臾も」は、ちょっとの間でも。「見てしかの「てしか」は、願望。「神名火の淵」の「神名火」は、神の来臨される場所。ここは、飛鳥川の雷丘(いかづちのおか)付近の淵。「浅せにて」の原文「浅而」は訓みが定まっていませんが、浅くなって、の意。「瀬にかなるらむ」の「か」は疑問、「らむ」は現在推量。970の「指進の」は意味不詳ながら、大工の用いる墨斗(すみさし)のことで、それを繰って墨糸を出す意から「繰る」と続け、同音で「栗栖」へ続けたのだろうといわれます。「栗栖」は、明日香の小地名か。「小野」の「小」は、美称。「散らむ時にし」は、散るであろう時に。「し」は、強意の副助詞。「手向けむ」は、神に物を供えよう。

 丈夫(ますらお)の旅人も、最晩年は、妻の死、老齢、病気、そして時流の変化のなかで、さすがに心の弱りを見せており、この2首は辞世の句とも受け取れる内容になっています。7月になり、結局、旅人は、念願の生まれ故郷に戻ることも叶わず、大伴氏の将来とまだ14歳の家持の行く末を案じつつ、遂に帰らぬ人となりました。家持や異母妹の坂上郎女に看取られながらの最期、時に67歳。無念の重なる晩年でしたが、遂にこの世の長い旅を終えたのでした。

 

 

 

万葉時代の年号

・大化 645~650年
・白雉 650~654年
 朱鳥まで年号なし
・朱鳥 686年
 大宝まで年号なし
・大宝 701~704年
慶雲 704~708年
和銅 708~715年
霊亀 715~717年
・養老 717~724年
神亀 724~729年
天平 729~749年
天平感宝 749年
天平勝宝 749~757年
天平宝字 757~765年

『万葉集』掲載歌の索引

大伴旅人の歌(索引)