訓読 >>>
かくしつつ遊び飲みこそ草木(くさき)すら春は咲きつつ秋は散りゆく
要旨 >>>
こうして、ずっと楽しみ飲みたいものです。変わらず見える草木ですら、秋にははかなく散ってしまうのですから。
鑑賞 >>>
大伴坂上郎女の、題詞に「親族(うがら)を宴(うたげ)する」とある歌。大伴氏一族の者が集まって酒宴を催すことが恒例となっていたようで、天平3年(731年)に氏の上(かみ)だった旅人が没した後は、本来家持が跡を継ぐべきところ、まだ年若なので、郎女が家刀自として一族の祭祀や集会の行事を仕切っていました。この歌は、天平5年(733年)11月に「大伴氏神」を祭った際の親族との宴で、主人として酒を勧める歌を詠んだとみえます。
「かくしつつ」は、こうして、このようにしつつ。「遊び飲みこそ」の「遊び」は、古くは神事について用いられた語ですが、『万葉集』では、日常生活を離れてくつろぎ、狩りをしたり逍遥するなど広範囲に用いられました。「こそ」は、願望の助詞。草木を例にあげて人生の短さを述べ、生きている間は楽しく飲もうという享楽的な心を歌ったものとされますが、一方では、この歌の調べに投げやりで捨て鉢な雰囲気もただようところから、その後の大伴氏の凋落を予期しているようにも感じるという人もいます。この時の家持は16歳にあたります。
大伴家の人々
大伴安麻呂
壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。
巨勢郎女
安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『 万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。
石川郎女(石川内命婦)
安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。
旅人
安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。
稲公(稲君)
安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。
田主
安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。
古麻呂
父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『 万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。
坂上郎女
安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。
書持
旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。
池主
出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。