訓読 >>>
4472
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み於保(おほ)の浦(うら)をそがひに見つつ都(みやこ)へ上る
4473
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ
4474
群鳥(むらとり)の朝立ち去(い)にし君が上はさやかに聞きつ思ひしごとく [一に云ふ 思ひしものを]
要旨 >>>
〈4472〉大君の仰せを承って、於保の浦を背後に見ながら都へ上って行く。
〈4473〉上京されて都の人に告げて下さるなら、前にお逢いした日と変わらずにいると伝えて下さい。
〈4474〉群鳥のように、朝早く旅立って行かれたあなたのご様子は、はっきりと聞きました。思っていたように無事であると。
鑑賞 >>>
4472~4473は、天平勝宝8年(756年)11月8日、讃岐守(さぬきのかみ)安宿王(あすかべのおおきみ)らが、出雲掾(いずものじょう:出雲国の三等官)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家に集まって宴会をしたときの歌。安宿王は長屋王の子。729年に起こった長屋王の変では、母が藤原不比等の娘であったことから同母弟の黄文王・山背王とともに罪を免れましたが、757年の橘奈良麻呂の乱に加わり、佐渡に流されました。『万葉集』には短歌2首(巻第20-4301・4452)。安宿奈杼麻呂は、百済からの渡来人の子孫。天平神護元年(765年)正六位上から外従五位下。『万葉集』にはここの1首のみ。
4472は、安宿奈杼麻呂が朝集使に任命され、都に出立する際の別れを惜しむ心を詠んだ歌。「朝集使」は、諸国の国司から一年間の管内の行政報告をしるした文書を太政官に提出する使いのことで、出雲国から都までは15日の道のりでした。「於保の浦」は所在未詳ながら、出雲の国庁近くの浦か。「そがひ」は、背後、後方。4473は、安宿王の弟の出雲守・山背王(やましろのおおきみ)が奈杼麻呂に贈った歌。この翌年に起きた橘奈良麻呂の反乱を朝廷に密告した功績で出世した人で、兄はこの弟に裏切られたことになります。「うちひさす」は「都」の枕詞。「告げまく」は「告げむ」のク語法で名詞形。「見し」の主語は「都の人」。「告げこそ」の「こそ」は、願望の助詞。なお、この時の会合は藤原仲麻呂覆滅のための連絡会議ではなかったかとの説もあるようです。
4474は、兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)大伴宿祢家持が、後日、山背王の歌に追和して作った歌。家持がこの宴に加わっていなかったことを示します。「群鳥の」は、「朝立ち去ぬ」の比喩的枕詞。「朝立ち去ぬ」は、山背王が出雲守となって都を出た時のことを言っています。半年前の5月10日に前出雲守の大伴古慈斐が失脚し、その後任としての赴任とされます。「君が上」は、君の有様、身辺。「さやかに聞きつ」の「さやかに」は、はっきりと。上京して来た安宿奈杼麻呂から貴君が無事であることをはっきり知った、の意。「思ひしごとく」は、思っていたように。
山背王
山背王は、長屋王の子、母は藤原不比等の娘で、安宿王・黄文王の弟にあたります。天平12年(740年)に無位から従四位下に叙せられ、右大舎人頭を経て、天平勝宝8年(756年)夏頃、大伴古慈斐の後任の出雲守となっています。翌天平宝字元年5月に従四位上、6月16日に但馬守に転じます。同28日、王は、橘奈良麻呂が兵器を集めて藤原仲麻呂の邸を囲もうとして謀議中、大伴胡麻呂もその一味であると密告します。ほんの一部を報じただけでしたが、最初の通報者であるとしてその忠義が賞され、事件後の7月5日に従三位に叙せられます。反仲麻呂派と目された安宿王は佐渡に流され、首謀者の一人として投獄された黄文王は苛酷な拷問によって獄死。この二人の兄は弟によって裏切られたことになります。同6年参議となり、翌年10月17日に死去。