訓読 >>>
4483
移り行く時(とき)見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも
4484
咲く花は移(うつ)ろふ時ありあしひきの山菅(やますが)の根(ね)し長くはありけり
4485
時の花いやめづらしもかくしこそ見(め)し明(あき)らめめ秋立つごとに
要旨 >>>
〈4483〉移りゆく時を見るたびに心が痛み、昔の人が思い起こされてならない。
〈4484〉美しく咲く花々は色移り、やがて散る時を迎える。山に自生する菅の根こそは、長く変わらない。
〈4485〉季節の花々はなんと美しいことだろう。ご覧になって気持ちを晴らしてください。秋がやって来るたびに。
鑑賞 >>>
大伴家持の歌。4483は、天平勝宝9年(757年)6月23日に大監物(だいけんもつ)三形王(みかたのおおきみ)邸で催された宴で詠んだ歌。大監物は大蔵省・内蔵省の出納を管理する役人。三形王は、系統不明。天平勝宝元年(749年)従五位下、天平宝字3年(759年)従四位下木工頭。仲麻呂派でも反仲麻呂派でもなく、家持の立場に近かったとされます。
この日は、橘諸兄の遺児・奈良麻呂による反藤原のクーデターが発覚する事件(橘奈良麻呂の変)の5日前にあたります。奈良麻呂には大伴一門の多くが与しており、家持の歌友だった池主もその一人です。この時の家持は軍事担当の兵部省の大輔に昇進したばかりで、むしろクーデターを鎮圧する側の立場にありました。そうした動きを事前に察知していたと思われますが、家持はこれには加わりませんでした。結果、計画は藤原仲麻呂によって鎮圧され、奈良麻呂ほか多くが捕縛されることとなり、池主も同じ運命だったようで、その後の消息が分からなくなっています。奈良時代有数の政変となった事件です。
家持自身が、これら緊迫した政治情勢に直接深く関わるようなことはなかったものの、自分の命運がいつどのように激変してもおかしくないという、立場の危うさを自覚しながら生きていたことでしょう。そうしたことから、ここの歌には意味深長なものを感じざるを得ません。「移り行く時見るごとに」は、昨年5月の聖武太上天皇の崩御、年明け早々の橘諸兄の死去、そして世は仲麻呂のままとなり、そうした苦々しい形勢に転じた不安と、自らの無力を慨嘆してこのように言ったものとされます。「昔の人」は誰を指すのか不明ですが、橘諸兄のことでしょうか、あるいは、かつて仲麻呂の父武智麻呂らが長屋王らの邪魔者を葬ったときに憤慨していた、父旅人のことを思い遣ったのでしょうか。
4484・4485は別の時の作で、事件が発覚し、池主ほか多くの知人を失って以降の作とされますが、巻第20の編集に関わった家持が意識的にこの3首を並べたようです。4484の「あしひきの」は「山」の枕詞。「咲く花」を、事を起こして成らなかった人々に見立て、「山菅の根」を、自身の動かぬ決意と解する説があります。格別人の目を引く花やかさはないものの、細く長く引いても切れない性質によって花と対照させたものと見られています。4485の「時の花」は、季節に応じて咲く花。「見し明らめめ」の「見し」は「見る」の敬語で、御覧になって気持ちを晴らしてください、の意。主語は天皇ですが、どの天皇とも決められません。