訓読 >>>
木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむ)けの山を今日(けふ)越えていづれの野辺(のへ)に廬(いほ)りせむ我(わ)れ
要旨 >>>
木綿畳を手向ける、その手向けの山(逢坂山)を越えて行き、いったいどこの野辺で今宵は旅寝をしようか、私は。
鑑賞 >>>
天平9(737年)年夏4月、大伴坂上郎女が賀茂神社に参拝し、そのまま逢坂山を越え、近江の海を臨み見て、夕方に帰って来て作った歌。逢坂山は、大津市と京都市の境の山。「木綿畳」は、木綿を畳んだ幣帛で、神に手向けることから「手向けの山」にかかる枕詞。「手向けの山」は、旅の無事を祈って手向けをする山のことで、同じ名は諸所にあり、ここは逢坂山のこと。「廬りせむ」の「廬す」は、仮の宿りを作ること。当時の旅は、旅館などありませんから、行く先々で野に廬を結んで宿るのがふつうでした。ここでは、久しぶりの遠出の参詣に、あたかも野宿をしたかのように歌っており、旅愁による、いわゆる文学的虚構と見られています。
窪田空穂はこの歌について、「題材によって見ると、逢坂山から引き返して、夕暮、京都府の平野を望んで、そのどこに宿るのだろうかと心許なさを感じた折の心で、その境はわかる。しかし一首の歌として見ると、郎女の特色の出ていない、いわゆる羈旅の歌の型に倣って詠んだごとき作である。郎女にはその境が支配しきれなかったとみえる」と評しています。