訓読 >>>
とこしへに夏冬行けや裘(かはごろも)扇(あふぎ)放(はな)たぬ山に住む人
要旨 >>>
いつだって夏と冬が同時にやってくるというのか、毛皮の衣を着て扇を放そうとはしない、この絵の中の仙人は。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から、題詞に「忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)る」とある歌。「仙人(やまひと)の形を詠む」との脚注があり、「形」は彩色しない絵のことで、皇子の邸にあった仙人の姿を描いた絵か何かを見て歌ったと考えられています。「とこしへに」は、永久に。「行けや」の「や」は反語で、行くというのか、いや行かないだろうに。「裘」は、毛皮で作った衣。「山に住む人」は、仙人のこと。神仙思想は、この時代には上流の知識階級にかなり浸透していたとされますが、この歌は、皇子の興を買おうとしての即興で、仙人を尊ぶ心は見られません。
忍壁皇子は、天武天皇の第9皇子で、天武10年(681年)に川嶋皇子らと共に帝紀および上古諸事の記定を命じられ、大宝元年(701年)には藤原不比等らと共に律令の撰定に参画した人。さように文化的教養をそなえた人であり、皇子の周囲には大陸からの渡来人官僚も多くいたであろうと想像され、仙人の絵も彼らを通じて入手したのではないかと見られています。歌は、人麻呂本人の作と見られています。
神仙思想
古代中国で、不老長寿の人間、いわゆる仙人の実在を信じ、みずからも仙術によって仙人になろうと願った思想。前4世紀頃から、身体に羽が生えていて空中を自由に飛行できる人が南遠の地や高山に住んでいるとか、現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶ蓬莱などの三神山に長生不死の人とその薬があるとかいう説があります。燕の昭王や斉の威王、宣王や秦の始皇帝や漢の武帝は、特にそれに心をひかれたらしく、始皇帝は、徐(じょふつ:徐福とも)らの方士に童男童女数千人を伴わせて蓬莱山へ不死の薬を求めに行かせています。この神仙思想が道家思想や五行説と結びついて成立した宗教が、中国3大宗教の一つとされる道教です。日本には仏教や文学書などとともに伝わり、8~9世紀にはかなり流行しました。ただし日本の場合は表面的な不老長生願望がほとんどであり、道との一体化という側面はあまり見られません。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について