訓読 >>>
白波(しらなみ)の浜松の木の手向草(たむけくさ)幾代(いくよ)までにか年は経(へ)ぬらむ
要旨 >>>
白波の打ち寄せる浜辺の松の枝に結ばれたこの手向けの紐は、結ばれてからどのくらいの長い年月を経てきたのだろう。
鑑賞 >>>
有馬皇子にちなむ岩代の浜松を詠んだ歌です。題詞に「山上が歌」とあり、山上憶良の作とみられますが、左注には「或いは川島皇子の御作歌といふ」とあります。巻第1-34には「白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ (一云 年は経にけむ)」の歌が載っており、そちらには「紀伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌、或いは山上臣憶良作るといふ」とあります。この時の行幸は、持統4年(690年)9月のもので、川島皇子34歳、山上憶良31歳の時にあたります。「浜松」は、浜辺に立つ松。「手向草」は、旅の無事を祈って捧げた幣のことで、麻布の類。「らむ」は、現在推量。
巻第1の歌とこの歌の関係について、国文学者の金井清一は次のように述べています。「巻一の歌は、行幸時に公的に献じられたものであろう。巻九の方は、献呈時に文書あるいは口誦で披露されたものを、見たか聞いたかして心覚えに記録したものか、さらに又聞きして書きとめたものであろう。したがって詞句の小異を生じたものと思われる。作者を川島皇子でなく山上憶良としているのは、こうした献呈歌の実作者が名義上の作者とは異なることを知っている人物、つまり行幸従駕の軽輩の歌人たちであろうか、そうした人物が伝えたためと思われる。柿本人麻呂の可能性もある。左注は巻九の編者が巻一を参照して後に加えたものであろう」。