訓読 >>>
秋されば春日(かすが)の山の黄葉(もみち)見る奈良の都の荒(あ)るらく惜(を)しも
要旨 >>>
秋がやってくるといつお春日の山の美しい黄葉が見られた奈良の都。その都が荒れ果てていくのが惜しまれてならない。
鑑賞 >>>
大原真人今城(おおはらのまひといまき)の「奈良の故郷を傷惜(いた)む」歌。「奈良の故郷」は、平城の旧都の意で、聖武天皇が天平12年(740年)12月から同17年9月まで平城京を離れたため、都は荒廃したのでした。大原真人今城は、大伴女郎の子。もと今城王で、臣籍降下して大原真人姓となった人。天平宝字元年(757年)従五位下、同8年、従五位上、その後、藤原仲麻呂の乱に連座してか無位となり、宝亀2年(771年)従五位上に復し、兵部少輔、駿河守等を歴任しました。『万葉集』には、13首。
「秋されば」は、秋が来るといつも。「さる」は、移動することを言い表す語で、遠ざかる場合だけでなく、近づく動きについても用います。「春日の山」は、奈良市東方にある、春日山、御蓋山、若草山などと呼ばれる山々の総称。「奈良の都」の「都」は、原文「京師」で、ミヤコを表す漢語。「荒るらく」は「荒る」のク語法で名詞形。天平15年秋または同16年秋の作と見られます。
なお、今城王の「王」というのは天皇の孫の世代の名のりであり、とくに天智・天武両天皇は多くの子をもうけたので、その孫や曾孫の世代の人々の数はますますふくれあがっていきました。その対策の一環として、姓を与えて臣籍に降ろすことが、天平の後半ごろから積極的に進められました。
古代の臣籍降下
律令の規定では、皇族(当時の言葉では「皇親」)の範囲を、歴代の天皇からの直系の代数で規定しており、四世(直系の4代卑属、以下同)までは王あるいは女王と呼ばれ、五世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の蔭位を受け、六世目からは王号を得られないものとされた(もっとも、慶雲3年(706年)2月の格で変更あり)。そのため、歴代天皇から男系で一定の遠縁となった者は順次臣籍に入るものとされた。
しかし、平安時代前期の皇室が多くの皇子に恵まれると、規定通りに解釈した場合の四世以内の皇族が大量に発生することになり、しかもそのほとんどが皇位継承の可能性が極めて低い状態になった。また、皇族の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちは、五世になるのを待たずに、臣籍降下をさせる運用が始まった。特に桓武天皇は一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った。嵯峨天皇はじめ、以降の天皇も多くの子女を儲け、その多くが一世で臣籍降下した。
また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となる例が多かった。
臣籍降下した元皇族は、新たに氏および姓(かばね)を下賜されて、一家を創設することが多かった(皇親賜姓、こうしんしせい)。一方で、臣下の養子(猶子)となる形で臣籍に降下する例もあった(皇別摂家)。
なお、臣籍降下に際して、諱については、王号が除かれるのみで改めないのが通常であるが、葛城王(橘諸兄)から諸兄、以仁王から以光などのように改める事例もある。古来は、多様な氏が与えられていたが、平安時代に入ると、源氏および平氏のいずれかを与えるのが常例化する。(~Wikipediaから引用)
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について